公益財団法人教育支援グローバル基金|ビヨンドトゥモロー

10周年を振り返って

ファウンダー/マネージングディレクター 坪内 南 メッセージ

※人物の所属・肩書は全てその当時のものです。

被災地からリーダーを

2011年、日本を未曽有の危機が襲った。後に「東日本大震災」と名づけられることとなる、地震、津波、原発事故という一連の惨事を、私は遠く離れたバーレーン王国という中東の地で知ることとなった。被災地の状況を画面越しに見守るしかなかった私が被災地の人材育成の活動に身を投じるようになったのは、震災から数日後、前職の世界経済フォーラムでダボス会議の運営に携わっていたご縁から知り合った、10数名の企業経営者や政治家などと共に「被災地のために何か始めよう」とディスカッションを始めたことがきっかけだった。発起メンバーたちで毎週のようにミーティングを開き、どんな理念で何をしていくのか、熱のこもった議論が繰り広げられた。今ふりかえると、信じられないくらいのエネルギーでがむしゃらに走り続けた日々だった。

「自分に何ができるか」を問う機会

震災直後の被災地には、ただならぬエネルギーをもった若者たちがいた。震災で家族や友人を亡くしたり、自宅や学校を流されたりという想像もしていなかった悲しみを経験し、どこに向けていいのかわからない喪失感をただただ自分の内に秘めている彼らと出会うのは、震災から半年ほどが経った10月に東京で開催した「東北未来リーダーズサミット」でのことだった。あの3日間の感動・胸の高まりを、私は生涯忘れることはないと思う。3月11日というあの日から、全く違うものになってしまった世界の中でそれぞれに生きてきた若者たち70名が集い、悲しみをわかちあい、故郷のために自分たちに何ができるかを模索した。当時まだ母親の遺体がみつからず、絶望の中に生きていた学生が「死ぬことばかり考えていた私に、生きる希望を与えてくれたのは、このサミットで出会った仲間たち」とコメントしたり、避難所暮らしをしていた学生は「頑張れ東北とか頑張ろう東北とかって言われるけど、実際に私達が頑張れる場ってのはこれまでなかった」とふりかえった。

その時点では、ビヨンドトゥモローがむこう何年間も組織的に続いていくという保証はなかった。だからこそ、「その瞬間を共に創りあげた」という熱気が場を包み、それがその後のビヨンドトゥモローを創っていく上での原点になったと思う。

起動力と持続力を支えたリソース

しかしながら、想いと熱意だけでは組織運営は続かない。組織を立ち上げ、継続させるためには、有形無形のリソースを確保する必要があり、多くの方々のお力添えをいただいた。今後の日本の市民社会の発展を願い、そのプロセスを記録として書き残したい。

資金

活動を始めるにあたっての必要な資金として、財団発足時に17名いた発起人たちで一人100万円ずつ出し合った。非営利活動の設立には様々な形があり、まずはボランティアでお金がかからない形で活動を始め、寄付を募っていくという方法もありえたが、全員が金銭的なコミットメントをもって設立に参画することで、この活動を必ずや成功させるという精神的なコミットメントを多くのメンバーから得ることにつながっていったように思う。資金繰りが苦しい状況での非営利組織の運営は、「資金を確保すること」が目的になってしまい、運転資金確保のために本来の理念に沿わない助成事業を実施したり、趣旨に合わない寄付金を受け入れてしまう危険性をはらむ。この10年間、理念から1ミリもずれることなく事業を継続することができたのは、ひとえに常に一定限の自己資金を担保することができていたからで、それは設立初期に発起人たちで私財を出し合ったという原点の思想を持続することができたからだと考えている。

そして立ち上げ期を過ぎて、事業の持続的な運営がチャレンジとなっていった時期においては、個人の篤志家の方々からの寄付が大きな力となった。返済不要の給付型の奨学金の支給を継続することの財務的な負担は大きかったが、自前で運営する人材育成プログラムによる学びの機会だけでなく、高等教育の機会を通じて彼らが学びを得ることを応援し続けたかった。そんな奨学金制度継続への想いを支えてくださったのが個人の支援者の方々だった。奨学金制度を支えるためにとご寄付をくださる個人の方は年々増え、マネックスグループ株式会社取締役会長の松本大氏、株式会社ミクシィ取締役会長の笠原健治氏などの企業経営者から、何年にも渡ってご支援を継続いただけたことが、制度を持続させる上で大きな力となった。

人材

財団を立ち上げた2011年6月、フルタイムでこの活動にコミットしたのは私一人だったが、すぐに井上裕太氏と阪本麻友氏が参画した。阪本氏は、ロート製薬株式会社からの出向という形で2年間勤務し、その後もロート製薬からは計4年間に渡り、社員の長期出向というご協力をいただいた。また2012年からは株式会社アルビオンからも社員の長期出向が始まった。被災地に足を運んでは現地の声を拾い、東京のオフィスでは夜中までその声を事業化するための会議や作業にあけくれ、時にぶつかりあい、涙をこぼしながら、全員が身を粉にして働き、ビヨンドトゥモローの原型をつくっていった時代だった。ゼロから事業を立ち上げる力強いスタッフたちの貢献がなければ、その後のビヨンドトゥモローは存在することはなく、力を添えてくれた全てのスタッフに感謝している。

米国とのパートナーシップ

設立後、資金もノウハウも不足する中、米国から寄せられた協力がビヨンドトゥモローの構築において大きな力となったことは筆舌に尽くしがたい。ジャパン・ソサエティー、米日カウンシル、フィッシュ・ファミリー財団、東北緊急援助基金ボストン、ルイジアナ州ニューオーリンズ震災基金など、多くの団体から、資金提供だけでなく、プログラム運営の際にそれぞれの団体の持つ人的ネットワークから協力者をご紹介いただいたり、セッションやイベントの企画を申し出てくださったり、また更なる資金集めのために寄付者をご紹介いただいたりというご協力をいただいた。米国の方々の情報収集や決定のスピードの速さは特筆するものがあり、設立直後、何の実績も持たなかったビヨンドトゥモローへの支援にあたり、非常に柔軟かつ迅速に対応していただいた。特に、ジョン・ルース駐日米国大使、アイリーン・ヒラノ米日カウンシル会長、櫻井本篤ジャパン・ソサエティー理事長、厚子・東光・フィッシュ フィッシュ・ファミリー財団創設者など、日米関係の強化のために重要な役割を果たしてこられた方々が、幾度となくビヨンドトゥモローの活動に足をはこび惜しみない支援をくださったことは、この時期の日米民間交流を語る上での重要な史実であると思う。また、ビヨンドトゥモローの活動が日本全国に展開する際には、日系アメリカ人の弁護士ととして両国の懸け橋として活躍された故村瀬二郎氏を慕う方々による村瀬二郎記念基金の運営をジャパン・ソサエティーと協働で行うことができた。こういった日米関係を軸とした連携により、ビヨンドトゥモローの活動は世界を見据えたものとして育っていった。その後、ビヨンドトゥモローの活動は、米国だけでなくアジアやヨーロッパでも活動を広げ、被災地の若者たちが民間外交の一翼を担う道筋が開けていくことになったが、それは初期にグローバルな視野を可能にしてくださった米国の支援者の存在があってこそであると考えている。

みえてきた課題、社会への意味合い

10年間にわたる活動の社会的な意義は多面的であるが、東日本大震災という非常時に始まった事業が、平時においても意義を発揮する事業として育っていったこと、そしてそのプロセスが民間主導で行われたということは大きな成果だった。緊急時に始まった事業が、そのミッションや方向性を変えることなく、平時においても意義を発揮することのできるものとして役割を果たすことは易しいことではなく、またその過程で「お上」や特定の利益や思想を代表する団体の意向におもねることなく、ミッション・ドリブン(理念ありき)の姿勢を貫くことは容易なことではなかった。それが可能であったのは、ひとえに「ミッション・ドリブン」という趣旨に賛同し、支えてくださった各方面の方々があってのことだったと思う。リソース不足で、明日の運営もおぼつかないような追いつめられた状況になっていたら、独立した運営体制を維持できえないこともありえただろう。

また、ビヨンドトゥモローの活動が長きにわたり色あせることなく鮮やかさを維持することができたのは、この活動が弱者救済に終始していなかったことが大きい。貧困や格差の問題の解決に取り組む団体が数多ある中で、ビヨンドトゥモローは、かわいそうな子たちを支援するということではなく、彼らの人生における困難は負の出来事ではなく、人生を豊かにするための糧になりうるということを、一人ひとりの人生に丹念に光を照らす作業によって実証していった。その過程がなかったならば、ビヨンドトゥモローはここまでの独自性を発揮する人材育成事業にはなりえなかったと思う。

最後に

今後、様々な形で、民間主導の取り組みが社会全体をよりよい場にしていく上で、ビヨンドトゥモローの事業構築の記録が何かの役に立てばこれ以上うれしいことはないと思っています。また、この10年間、ビヨンドトゥモローの活動に有形無形の形で力を添えてくださった全ての方々、そしてビヨンドトゥモローに出会ってくれた参加学生たちに、心から御礼申し上げます。最後に、私的なことではありますが、ビヨンドトゥモローは、私自身の人生を確実に実り多いものにしてくれました。ビヨンドトゥモローに携わっていなかったならば、苦労は少ない人生だったかもしれませんが、これ以上に自分の人生を真面目に生きることはできなかっただろうと、この数奇なご縁に深く感謝しています。

 

坪内 南
一般財団法人教育支援グローバル基金 ファウンダー/マネージングディレクター

マッキンゼー・アンド・カンパニー(東京)、AAR Japanカブール事務所(アフガニスタン)、世界経済フォーラム(スイス)、バーレーン経済開発委員会(バーレーン)等での勤務を経て、2011年東日本大震災を機に一般財団法人教育支援グローバル基金(ビヨンドトゥモロー)を創設。以来、逆境にある若者達への支援を続けている。 慶應義塾大学総合政策学部卒業、マサチューセッツ工科大学都市計画修士。