公益財団法人教育支援グローバル基金|ビヨンドトゥモロー

未来への挑戦は、続いていく。

ビヨンドトゥモロー座談会

「ビヨンドトゥモロー」の発足から10年。これまで私たちは、多様な価値観が共存する社会の実現を目指し、逆境を経験した多くの若者たちを応援してきました。10周年をひと区切りに、改めてそれぞれの立場からこれまでの「ビヨンドトゥモロー」の歩みを一緒に振り返っていただきます。集まってくださったのは、私たちの挑戦に参加し、共に歩んできてくれた現役生の稲村ほのかさんと卒業生の藤田真平さん。そして、評議員の山崎直子さんとアドバイザーの竹中平蔵さんにも加わっていただきました。

司会進行/ビヨンドトゥモロー

参加者、プロフィール


稲村ほのか

「ビヨンドトゥモロー」2015年~2021年次年間プログラム参加学生/宮城県亘理郡亘理町出身。宮城学院高等学校卒業。上智大学外国語学部在籍。高校生の時、ボリビア・サンタクルスの「コレヒオ・フランコ・ボリビアーノ」に留学。大学生の時にコロンビア・ボゴタの「ハベリアナ大学」に留学経験がある。


藤田真平

「ビヨンドトゥモロー」2012年~2015年次年間プログラム参加学生/宮城県気仙沼市出身。 神奈川県立岸根高等学校卒業。神奈川大学法学部卒業。5歳から水泳を始め、全国優勝の経験があり高校卒業後は神奈川大学体育会水泳部に所属し主将を務めた。現在は株式会社エンカリディアーゾに所属、俳優・タレントとして活躍。


山崎直子

宇宙飛行士/東京大学工学部航空学科卒業、東京大学院航空宇宙工学専攻修士課程修了。2010年、スペースシャトルに搭乗し、国際宇宙ステーション(ISS)組立補給ミッションに従事。2011年にJAXAを退職。内閣府宇宙政策委員会委員、日本宇宙少年団(YAC)アドバイザー、出身地の松戸市民会館名誉館長等を務める。


竹中平蔵

慶應義塾大学名誉教授・東洋大学教授/一橋大学経済学部卒業後、日本開発銀行入行。2001年、小泉内閣の経済財政政策担当大臣就任を皮切りに金融担当大臣、郵政民営化担当大臣、総務大臣などを歴任。政界引退後、㈱パソナグループ取締役会長、オリックス㈱社外取締役などを兼職。 

震災の体験を話すことができず、心に不安を抱え続けた日々

まずは10年前の3月11日のことをお伺いします。あの日はどこで、何をしていらっしゃいましたか?

稲村 私は当時、宮城県仙台市の中学校一年生で、地震が起きた時はホームルームの最中でした。すぐに校庭に避難して、その後で校内のホールへと移動しました。しばらくして家族と連絡が取れて、その時に祖父が「家が流された」といっていたのですが、私にはどういう意味なのかわかりませんでした。学校は私の家から数十キロ離れた内陸部にあるので、津波が起きたことをすぐには認識できなかったのです。でも、父が迎えに来て、「帰る場所がないから、今日は学校に泊まろうね」と言われた時、あ、本当に家が流されちゃったんだと思いました。翌日から親戚が経営する居酒屋の店内で数日を過ごし、その後は私と双子の妹が別の親戚の家に移り、親と離れた生活が続きました。

藤田 僕は宮城県気仙沼市の高校2年生でした。あの日は午前中に学校で終業式の予行練習をして、水泳部の練習に行く前にいったん家に帰っていました。地震が発生した時、すぐに僕の頭に浮かんだのは2日前の地震のことでした。3月9日に三陸沖を震源地とする最大震度5弱の地震があり、その時は津波は来なかった。だから今回も揺れるだけで終わるだろうと思っていたのです。でもさらに大きい揺れが来て、その後に大津波警報が発令され、とんでもない事態になったんだと思いました。

高台などに避難されたのですか?

藤田 僕の家は海から100メートルも離れていない場所にあったので、父と弟と祖母と一緒に車に乗り込んで高台を目指しました。でも、道は一本道で信号も止まっているので大渋滞になり、周りはクラクションと怒号の嵐。このままでいたら流されてしまうと父が判断し、自宅近くのビジネスホテルに避難しました。それから津波が来て、街が流され、フェリーや重油タンクも流れていって唖然としていたのも束の間、僕らが逃げ込んだホテルの対岸の造船所から火の手が上がり、それが次々と周りに移って内陸まで侵入し、あちこちで火事になりました。避難したホテルは7階建てでしたが、流された家が3階部分に突っ込んできたりしていたので、いつ周りの火が燃え移ってくるのかもわからない状態で……、その夜は消火器を抱いて寝ました。

お二人とも、私たちの想像を絶する大変な不安の中にあったことと思います。東京の竹中さんと山崎さんの、あの日の記憶はどのようなものですか?

竹中 私は地震の発生時、慶応大学の所長室におりました。自分は和歌山県の出身で、子供の頃から地震には慣れているつもりでしたが、あの時の揺れは私の人生で最大の衝撃でした。館内放送で「とにかく建物の外に出て」といわれ、出たらキャンパス内は人であふれかえっていました。駐車場に置いていた車は無事だったので家に帰ることにして、いつもなら20分の道のりを約1時間半かけて帰り着くと、マンションのエレベーターが停止していました。大学の所長室には水と毛布をいくらか置いてあったので、帰宅できない人のために部屋を解放し、使ってもらいました。

山崎 私はちょうどアメリカから日本に帰国していて、小学生の娘の授業参観中に地震が起きました。生徒たちはとりあえず机の下に隠れて、揺れが収まってから校庭に出て、その後、解散になりました。夜中近くまで停電が続きましたが、インターネットは通じていたので、いろいろな人と連絡を取りながら状況を見ていました。その夜に私が思い出していたのは2001年の9・11アメリカ同時多発テロの時のことです。当時は訓練でロシアにいて、ニュースを知った時はものすごい衝撃を受けました。それと同じような感覚が蘇ってきて、福島には原発もありますし、これは大変なことになっていくのではないかと思ったのを覚えています。

稲村さんと藤田さんは故郷がそれまでと全く違う状況になっていくなか、どのような思いで過ごしていたのでしょうか。

稲村 私が通っていた中学校には県内外のさまざまな地域から生徒が集まっていて、同級生の大半は津波による被害を受けていませんでした。震災後に友達から次々と携帯にメールが来て、「大丈夫?」と聞かれていましたが、大丈夫じゃないのは私だけでした。他のみんなは普通に勉強を続けることができていたけれど、私は地震の日に手元にあったもの以外はすべて失くしてしまい、何もできない状態が何日も続いて……、このままでは置いていかれる、という不安にさいなまれる日々でした。

同じ体験を共有できる存在が身近にはいなかったのですね。

稲村 学校が再開して、アルバムを作るので昔の写真を持ってきてくださいと係の人からいわれ、私はこういう事情で昔の写真がないので、と伝えると、「あ、暗くなるからそういう話はやめて……」という雰囲気になるんですね。もちろん相手に悪気はないのですが、私としては「震災のことは話せないんだな」と思ってしまって……。妹もいるし、自分は姉だからしっかりしないといけないという気負いもあったのか、家族に対しても辛いという言葉を口に出せないところがありました。

藤田 僕も家は失くしたけれど家族は全員無事だったので、身内を亡くした友達の話を聞くと、自分はなんて儲け者なんだろうと思わずにはいられませんでした。知人の家に居候させてもらい、屋根のある場所で生活することもできる自分は幸せだと思い、逆に周りの人のために何ができるのかを、日々、模索していました。

その後、藤田さんには一つの転機が訪れましたね。

藤田 小さい頃からずっと水泳を続けていたのですが、被災地に水が供給されないなかで、水泳をしたいなんてことはとても口に出せなくて……。ある時、出会った新聞記者の方に「今の気持ちを書いてみませんか」と勧められ、記事と共に「泳ぎたい」とメッセージカードを持った写真が掲載されました。するとそれがきっかけで、神奈川県の高校に大学進学を前提とした転校をすることができたのです。本当にありがたいことでした。ただ、被災者が一人もいない環境に単身で転校して、周りの人も僕に気を遣ってくれているのがわかったので、震災のことは何も話さないほうが周りとうまく付き合っていける、ということを常に感じながら過ごしていました。

痛みを共有できる仲間との出会いで、新たな一歩を踏み出すことができた。

稲村さんと藤田さん、それぞれのビヨンドトゥモローとの出会いはいつ、どのようなものでしたか?

稲村 私は2013年、高校1年生の時に東京で行われた「東北未来リーダーズサミット」に参加しました。被災した人たちが集まる場所に行ってみたいという思いがあったからです。もともと人見知りということもあり、初めて会う人達と体験を共有することに最初は驚きや戸惑いもありましたが、話をするうちに自然と涙が出てきて、自分でも驚きました。それまで震災のことで泣いたことはほとんどなくて、辛いことはないと思い込んでいたのですが、そこで初めて、ああ、本当は辛かったんだ、ということに気づくことができました。その後は、少しずつ震災の体験を自分から周りの人に正直に話したり、感情を表に出すことがらくにできるようになりました。あの時、ビヨンドトゥモローと出会ったことで、初めて震災を乗り越えることができたのだと思います。

藤田 僕は震災から半年後に実施された第一回目の「東北未来リーダーズサミット」に参加したのが最初でした。東北発のリーダーになるというサミットの趣旨に惹かれたのです。そこには自分が見ていた震災とはまた全然違う経験をした人たちが集まっていて、それまでの人生で、あの時ほど人の話を染み入るほど聞いたことはなかったです。自分の経験もしっかり人に聞いてもらえるという安心感に包まれたような感覚があり、僕の経験を話すことで、救われたとか、気づきがあった、といってくれる人もいて……。あ、自分は喋っていいんだ、転校してから一人で抱え込んでいたこともさらけ出していいんだ、と思うと嬉しかった。同じ経験をした人たちと話すことで素直になれたのだと思います。

竹中さんはダボス会議に学生たちを派遣して、被災地の状況を世界に発信してくださったこともありました。

竹中 あの時、ある女子高校生がご自身の体験をスピーチしてくださったのですが、それがとても感動的なお話でした。スピーチの後でスイスの大企業の社長さんが私のところに来て、「辛い経験をした高校生がこのような素晴らしい発信をすることができる日本という国は、これからも絶対に大丈夫だ」と励ましてくださったことを思い出します。私たちも若い人たちにさまざまなことを教えられた貴重な経験でした。

私は、今の時代には3つのキーワードがあると思っています。それは「スマート」、「サスティナブル(=持続可能な)」、「インクルーシブ」です。AI(人工知能)などのスマートテクノロジーを駆使して地球環境の持続可能性を実現していくことはとても重要ですね。そして、もう一つがインクルーシブ。「包括的な」とか「幅広く全体を含んでいる」という意味ですが、つまりみんなにいき渡らなくてはいけないということです。そのインクルーシブの原点が、困難を経験した若い人たちに新しいチャンスを与えることなのではないでしょうか。なかなか実践するのは難しいものですが、それをビヨンドトゥモローではこの10年間、しっかり続けてこられた。素晴らしいことだと思います。

山崎さんにも初期からビヨンドトゥモローの活動に関わっていただき、ご自身の宇宙での経験をもとに、学生たちにさまざまなお話をしてくださいました。

山崎 私がオファーをいただいたのは、東日本大震災から約2か月後くらいでした。最初にビヨンドトゥモローの理念や活動内容の話を聞いた時、なんと一人ひとりに寄り添ったプログラムなんだろうと感動したのを覚えています。さまざまな困難を経験してビヨンドトゥモローに参加してくる若者たちの一人ひとりが力強く育っていくことこそが、これからの日本にとっての財産だという信念のもとに活動されている姿にとても共感しました。

自分が経験した辛いことを人前で話すのはとても難しいことだと思います。でもそれを客観的に捉えてきちんと発信することができるのは本当にすごいことです。それはきっとお二人が話していたように、ビヨンドトゥモローの活動に関わって、自分が発信していいのだという信頼感があるからこそできること。一人ひとりがいかにすばらしい人であっても、そのような環境がないと有効にできないことだと思います。

稲村さんは、ビヨンドトゥモローのプログラムを通してどのようなことを感じてきましたか。

稲村 大学生になって、サミットでリーダーを担当したことがありました。その時に、人と比べるのではなく、自分の歩調に合わせてやればいいんだということがわかったような気がしました。私は仲間をぐいぐい引っ張っていくリーダーではないけれど、後ろから支えるような、そんな自分なりのリーダーシップを見つけることができたのは嬉しかったですね。

また、サミットの参加対象が日本全国に広がって、それまでに出会ったことがないような、さまざまなバックグラウンドの学生たちと出会うことができたのも大きなメリットでした。私は震災を経験しましたが、勉強を続けることができたし、留学したいといったら行かせてもらうこともできました。あまり苦労せずに生きてきたせいか、人に対する共感力がほとんどなかったようです。留学ができるのも自分の努力の結果だと思い込んでいたのですが、じつはそうではなくて、ある意味、下駄をはかされていることに気づいていなかったのだと初めて思い知りました。そのようなことを経て、徐々に共感力をもって社会のさまざまな問題に目を向けることができるようになった気がしています。

稲村さんは高校と大学で海外留学を経験していますね。

稲村 高校生の時はボリビアに、大学生の時はコロンビアに留学しました。高校生の時は自分から行動することができなかったのですが、その後、ビヨンドトゥモローの活動でディスカッションをしたり、人前で発表したりすることを積み重ねていたおかげで、大学生の時は自分から積極的にコミュニティに飛び込むことができ、交渉して住む場所を寮からホームステイに変更してもらったこともありました。自分で考えて行動し、意見をいうことができるようになったのは大きな成長だなと……。今は就職活動中で、インターンシップに参加した時なども、同じようなことを感じています。

藤田さんはビヨンドトゥモローとの出会いが、その後の人生に影響していると思うようなところはありますか?

藤田 ビヨンドトゥモローのプログラムを通して、できないことはないということを何度も感じさせられました。初めてリーダーズサミットに参加した時は、話したことのない人と話してみようと思って話をし、寄り添って、理解し合って、一緒に提言を作成する機会を作ってもらいました。翌年にはチームリーダー、その後は運営担当と、どんどん自分のフェーズを上げていただきました。ビヨンドトゥモローの活動に参加している時は、水泳選手というよりも一人の人間として成り立っている気がしました。

アメリカのシアトルで開催された米日カウンシルの会合や、タイで行われたアジア防災閣僚級会合にも参加して、発信させていただきました。シアトルではまだ英語をほとんど話すことができなかったにもかかわらず、英語でスピーチを任されました。タイの会合に参加した時は、僕だけが他の皆さんよりも遅れて合流することになり、朝の4時過ぎに空港からバンコク市内のホテルまで、土地勘もなく、つたない英語でタクシーの運転手に必死に説明しながらなんとかたどり着いたということがありました。そのような経験のおかげで度胸がついて、その後、個人的に震災の語りべを始めたんです。企業を回ったり、地方に行って学校の授業で話をさせていただいたり……。毎回、アンケートの感想を読みながら、震災について自分一人で抱えていた事柄でも、じつは知りたい人もたくさんいるのだとわかり、自分の教訓を多くの人にシェアして、将来の備えにしてもらえたらいいなと思いました。

竹中 関東大震災の直後に帝都復興院の総裁となった後藤新平は、震災で何が起こったのかをまとめて英語の本にしました。その前文には「震災の時に我々は世界の方々から助けてもらった。その恩返しとして我々にできることは、我々が行った震災対応の良いことも、失敗も、すべてをちゃんと伝えることだ」ということが書かれていたそうです。私も東日本大震災の後に「大震災の教訓」というセミナーを開催し、専門家の方々と新しい危機管理の観点から分析・議論を行いました。そして、その内容をまとめた本を作りました。稲村さんや藤田さんが発信されているのと同じように、震災の教訓を残し、伝えることは大切ですね。

力強く、しなやかな復元力で、未来を創っていく。

竹中 ビヨンドトゥモローの理念にもあるように、逆境は優れたリーダーを創る一つの重要な要素であると私も思います。今のコロナ禍もそうですが、カオスというのは人間や社会が持っている強さと弱さの両方をさらけ出すものです。MITメディアラボ(米国マサチューセッツ工科大学の研究所)がアフターインターネットの時代を表した言葉の中に「レジリエンス・オーバー・ストレングス/強さよりも復元力が大事だ」というのがあるように、強い会社であっても壊れることはあり、それを復元する力が大切なのです。大震災も同じです。強い復元力があれば再生することができる。困難を体験した若者も、弱さを是正して強さを生かすようにすれば、リーダーを創り出すことができると思います。

山崎 宇宙飛行士になる時の試験では、「これまでにどのような逆境を体験して、それをどのように乗り越えてきましたか」ということを必ず聞かれます。人の中にあるレジリエンスも大切で、何かが起こった時にこそ人の真価が発揮されるということなので、その時にどう対処したか、が重要になってきます。また、宇宙飛行士の訓練は主に野外で行うのですが、みんなでチームになって、役割分担をしながら助け合わないと生活できない環境の中で、あえて過ごします。そして、毎日リーダーを交代するのです。そうすることによって、自分の内面に新しい気づきがあったり、自分以外の人の新しい一面を知ったりと、お互いに自分の殻を破ることができる。そのようなことで、あえて違う環境で、いつもと違う役割を担うことが重んじられているのです。逆境というのはおそらくその最たるもので、日常とまったく違う環境の中で、自分はどんな役割を担えるのか、心の底から考えた人は、そのことがものすごく強みになるのではないかと私は思います。

ーーでは、若者お二人の今後の展望をお聞かせください。

稲村 現在、就職活動中なのではっきりしたことはまだわかりませんが、人の問題を当事者として考えられるような共感力のある社会を目指したいと思っていて、教育業界やPR業界でそれを実現していくことができたらいいなと思っています。

藤田 僕は今、芸能の仕事をさせていただいているのですが、多くの人に支えてもらって今の自分があるのだということを日々、強く感じて、感謝の気持ちでいっぱいです。この先はどうなるのか、正直まだわかりませんが、やれるところまでやってみたい。一番目指しているのは、経済を動かせる俳優になることです。

竹中 古希を迎えた私がみなさんに言いたいのは、人生意外と短いぞ、ということです。本当に自分がやりたいことをとことん追求していってほしいですね。

山崎 今の時間を精一杯楽しんでほしいなと思いますね。世界はみなさんが思っているよりもっともっと広いし、好奇心と共感力を忘れずに、どんどん外に出ていってほしいと思います。

本日は、どうもありがとうございました。

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