ビヨンドトゥモロー 東北未来リーダーズサミット2012
報告書(PDF)
概要
ビヨンドトゥモローは、第二回開催となる東北のリーダーシッププログラム「東北未来リーダーズサミット2012」を開催しました。本サミットは、東日本大震災により被災し、困難な状況を経験しながらも、グローバルな視野を持ち国内外で活躍する志をもつ若者を対象としています。書類選考により選ばれた60名の高校生と、自らも東日本大震災を岩手・宮城・福島のいずれかの県で体験し、ビヨンドトゥモローの活動に継続的に参加して、未来へ向かいそれぞれの社会的アクションを起こしている15名の大学生が、様々な領域で活躍するリーダーたちによるアドバイスの下、東北の復興のあり方について、グループ毎に提言をまとめました。震災・津波という困難を経験したからこそ、他者への共感をもって広い社会のために行動を起こすことができる人材が出てくるという信念のもとに、このサミットでは参加学生が、逆境を乗り越えて果たすべき社会的な役割について考え、アクションに移すきっかけを提供しました。
目的
- 「東北の未来への提言」を策定する
自らの経験や周囲の人々の声に基づき、東北の復興の在り方について議論し、提言として発表する - 様々な領域で活躍するリーダーとの対話を通し、自らの将来のビジョンを具体的に描く
各界のリーダーとの対話を通じて、震災・津波を経験した自分たちだからこそ、広い社会で果たすべき役割について考える - 志を共にする仲間と議論し、意見を交わすことで切磋琢磨の機会を持つ
日程・開催地
2012年10月12日~14日
国立オリンピック記念青少年総合センター(東京・渋谷)
参加者
東北被災地出身の高校生60名
東日本大震災の際に、岩手・宮城・福島のいずれかの県に居住しており、震災を乗り越えてグローバルな視野を持ち国内外で活躍するリーダーになることを志す高校生60名。(書類選考によって選出)
東北被災地出身の大学生15名
自らも東日本大震災を岩手・宮城・福島のいずれかの県で体験し、ビヨンドトゥモローの活動に継続的に参加して、未来へ向かいそれぞれの社会的アクションを起こしている大学生15名。
提言アドバイザー
各界のリーダーが学生のチームに入り、提言アドバイザーとしてチーム内のディスカッションをサポートしました。学生が東北復興や、自らの将来の進路を考える上でアドバイスを頂きました。
- 荒井 優
- 公益財団法人東日本大震災復興支援財団 専務理事
- 岩瀬 大輔
- ライフネット生命保険株式会社 代表取締役副社長
- 岡島 悦子
- 株式会社プロノバ 代表取締役CEO
- 籠島 康治
- 株式会社電通 ソーシャル・デザイン・エンジン/コピーライター
- 立花 貴
- (株)四縁 代表取締役、(社)Sweet Treat 311代表理事、
- (社)東の食の会 理事、(株)OHガッツ発起人・右腕役員、
- (社)3.11震災孤児遺児文化スポーツ支援機構 常任理事
- 照屋 朋子
- NGOゆいまーる 代表
- 原 聖吾
- マッキンゼー・アンド・カンパニー
- 藤沢 久美
- シンクタンク・ソフィアバンク副代表、社会起業家フォーラム副代表
- 藤田 華子
- 群馬大学医学部医学科
- 船橋 力
- 株式会社ウィル・シード ファウンダー兼取締役会長、(学)河合塾 顧問
- 堀田 真代
- ソフトバンク株式会社 社長室復興支援グループ
- 松古 樹美
- 野村ホールディングス コーポレート・シティズンシップ 推進室長 マネージングディレクター
- 松永 秀樹
- 国際協力機構エジプト事務所所長兼イエメン支所長
専門家
学生が東北の復興を考える上で、各分野の第一人者から必要なインプットを頂きました。分野は、アントレプレナーシップ、観光と地域活性化、災害予防とまちづくりの3分野。
ゲスト
様々な分野で活躍されているリーダーをお招きし、キャリアや、どのように社会に貢献していくべきかなどについてメッセージを頂きました。各界で活躍されているゲストとの対話は、学生の視野を広げ、未来のリーダーとなるための大きな一歩となりました。
プログラム概要
被災体験の共有
2011年3月11日、何が起こったのか。震災で何を失い、何を得たのか。震災から1年半が経つ今まで、「私」にどのような変化があったのか。参加者は自分の言葉で、3月11日を語り、そして、真摯に仲間の話に耳を傾けました。震災で繋がった新たな出会い―参加学生は互いの体験を共有することで、絆を深めました。
3月11日。まだ寒さの続く中、私は全てを失いました。
江田 芽衣子(仮名)
石巻専修大学 経営学部1年(宮城県石巻北高等学校卒業)
石巻市から来ました、江田 芽衣子です。
3月11日。まだ寒さの続く中、私は全てを失いました。
住み慣れた町。幼少から育った家。そして最愛の父。津波は一瞬で全てを奪っていきました。
津波の前、父に電話をかけると、奇跡的に電話がつながりました。父は、これから家に帰るところだと言い、受話器越しに車のエンジンをかける音が聞こえました。これが父との最後の会話になりました。
高台に避難した私の目の前で、私の家は流されていきました。町中を黒い水がつつみ、町中から助けてという声が聞こえました。その時、私は何もできませんでした。無力な自分を感じました。
私は一人娘で、ずっとお父さんっ子として育ちました。父の死を受け入れることが出来ず、父の遺体がみつかるまでの間、毎日、父の携帯に電話をかけました。誰も出ないのはわかっていたけれど、毎回、恐怖の中で電話をかけ、誰も出ないことを確かめて電話を置いては泣きました。
復興、復興、といわれても、私の心は立ち止まったままでした。強くなりたくて、自分の中で何が強いのかわからず、でも強くなりたくて、どうすればいいのかわからない日が続きました。
そんな時、私は、ビヨンドトゥモローに出会いました。何が出来るかわからない時、何が出来るかを考える場に出会いました。それまでずっと孤独でしたが、ビヨンドトゥモローで一生の仲間と最高の時間を共有し、絆が生まれ、仲間が出来ました。
震災から1年が経った日、私は自分に約束しました。「人との想いを共有して、その人の夢を応援できる人になる。私が絶望的だった時、助けてくれたのは人とのつながりだったからこそ、自分が多くの人と関わり、一人でも役に立てられるように、様々なことにチャレンジして、また1年後、成長できた自分に出会う」と。
この夏、アメリカに行ったことで、私には、ジャーナリストになり、人と人を言葉でつなぐ役割を果たしたいと考えるようになりました。この新しい夢を叶えることで、私は、誇りに思っている父が生きていたという証になりたいと思います。
過去は今を変えられないけれど、今は未来を輝かしいものにできる可能性を秘めている。震災を通して、人と繋がり、行動した私が得た想いであり、未来に伝えたいことです。
自ら命を絶たずに生きてきたのは、母や祖母、そして家族のために少しでも故郷の復興に尽力したいと思ったから
千田 真一(仮名)
宇都宮大学 工学部1年(岩手県立大船渡高等学校卒業)
震災の前日のことを思えば、おかしな日でした。校庭の上空はまだ午後4時だというのに深い赤に染まり、そこには夥しい数の鳥が群がっていたのです。何かがおかしいことに気付いていれば。今でもそう思います。
2011年3月11日14時46分18秒。地震が発生した時、部活動中でした。未だ体験したことのない揺れに、多くの生徒たちが興奮している様子でした。表情には 笑いすら浮かんでいました。これからどれだけの悲しみを味わうことになるかも知らず、心のどこかで期待していた非日常の訪れを私たちは密かに愉悦してすらいたのです。
海から50mの近さにある自宅と連絡はとれませんでしたが、裏山に避難しているはずだと大して心配もせず、学校で一夜を明かし、翌日の朝、三陸鉄道のトンネルを通って、1時間程の道のりを歩いて帰りました。トンネルを抜けた時、建物のない光景が広がりました。それは、それまでに得た情報で覚悟はしていた光景でしたが、その世界には、覚悟していなかった事実がありました。
それは、この世界から、母と祖母が消えていたことでした。
母と祖母が亡くなったと聞かされた時、まったく意味が分からなくなりましたが、家の裏の山へ連れて行かれ、車の中に母の脚を見た瞬間、今朝の母の顔や、これまでの毎日を思い出し、どんなに、どんなに辛かったかと思うと、叫ばずにいられませんでした。私の手が母の顔を包んでも、その温もりも冷えていくばかりで、温かさが返ってくることは、決してありませんでした。
火葬はたまらなく嫌でした。火葬しなくてはならないが、して欲しくないジレンマに悩み、母の肉体が火の中に消えていくのは本当に耐えられませんでした。
それからの毎日に意味が見出せず、「大丈夫か」と聞かれても、何が大丈夫なのか分からないままに笑顔を作りました。毎日、夢中で瓦礫を片付けました。母が津波にのまれたのは、私や弟たちの学習道具を二階に運んでいたからだと聞き、毎晩寝られず自分を責めました。あの朝何かが変わっていればといつも思いました。
それでも自ら命を絶たずに生きてきたのは、母や祖母、そして家族のために少しでも故郷の復興に尽力したいと思ったからでした。そしてそれこそが生き残った私の使命だと考えるようになりました。
私の住む大船渡市は水産物を軸に発展してきた街なので、魚や加工品を運ぶ交通網の整備を行う必要があると考えています。そこでただ元の大船渡市に戻すのではなく、災害に強く、住みやすい街にできるよう、大学で建設工学を学びたいと考えています。
生き残った私にはやるべきことが多くありますが、人々の心から東日本大震災という出来事が風化していかないようにすることこそ大切であると思います。今日本では、南海トラフ、都市直下型などの巨大地震の想定が出ています。そのような状況の中で今回の震災を教訓にし、私たちが体験したことを発信していくことで、災害を防ぐことはできなくとも、迅速に避難し、地震に対する意識を高く保つ続け、被害を最小限に抑えることはできると思います。そうなっていけば、本当の意味での教訓が生きたということになっていくんだと思います。
私のように悲しい思いをする子がこれ以上生まれないよう、心の中で永遠に生き続ける母と共に強く生きていきたいと思います。
課題発表
2日目の朝、各チームが2日間取り組む課題が発表されました。
「東北未来マニフェストの策定」
皆さんは、若者による政党の幹部です。
政党の幹部として、選挙に勝つため、東北の復興に役立つ政策について考え抜いて下さい。
被災地のリアリティを知っている皆さんだからこそ作ることができる。
東北と、そして日本の未来を担う若者である皆さんだからこそ描ける。
そんなマニフストを作り、各界のリーダー、そして未来のリーダー候補による総選挙を行います。
テーマ
- アントレプレナーシップ(起業・事業創造)による東北復興
- 世界に誇れる防災・安全なまちづくり
- 観光による魅力ある東北の復興
ルール
- 政党の名称を記す
- ネクスト内閣のメンバーと役割を決める
- マニフェストの内容を一言で表すキャッチフレーズを入れる
現地のニーズの理解
参加学生は、東北未来マニフェスト策定に向け、現地のニーズを把握することから始めました。東北で何が求められているのか、本当に必要な政策とは何か。参加学生は、自らの体験と、現地の声を元に議論しました。
共有された現地のニーズ
課題になっているのは、町に人が戻って来ないこと。町に戻ってきても働ける場所がないと経済的自立が厳しく、生活が困難になる。また、公共交通機関の復旧が遅れているのに加えて学校や職場を変更するのが容易ではない状況にある。
商業地の復興。今は復興商店街など、「復興」という文字がつくものがたくさんある。そのような場所が「復興」という言葉なしでも振興している様子を見たい。
自分の家が震災で被害を受け、リフォームをするにせよ、業者が忙しすぎて、未だに工事をしていない家が多数ある。実際、いとこの家もようやく来月に着工する。また、需要が供給を大幅に上回っている状況なので、工事をするにせよ、同じ工事を震災以前に行った場合に比べ、高額を請求される傾向にある。
専門家インタビュー
アントレプレナーシップ
宮城 治男
NPO法人 ETIC.代表理事
政治・行政が遅いという人はいる。しかし、仮に行政が機能して、お金の配分がうまくできたとしても、自分たちが生きていることに意味を見出せない大人は元気にならない。生きがいを作ることで彼らは元気になる。あなたたち高校生は、奇跡を起こすことができる。
安全なまちづくりと防災
西川 智
独立行政法人 水資源機構 監査室長
安全なまちづくりのためには何が必要か。「~すべきだ」と言う理念を言う人はたくさんいる。問題なのは、誰が決めるのか、将来像をどう描くのか、決めた将来像をどう地域の住民に納得させるのか。皆さんが直面しているのは現実です。
観光と地域活性化
多田 一彦
特定非営利法人 遠野まごころネット理事長
全てが失われた今、これを最大のチャンスと考えて新しいことに取り組んでいくしかない。やらなければよかった失敗なんてない。やってよかったという失敗はたくさんある。
リーダーとの対話
ジョン・V・ルース
駐日米国大使
あなたたちのような若者の存在があるからこそ、東北の将来を心配することはないと言いたい。東北の未来は、あなたたちにかかっているのです。
櫻井 本篤
ジャパン・ソサエティー 理事長
ひとつ皆さんに訴えたいことは、これから皆さん色々な局面で自分の道を選択するということがあると思います。その時にできるだけ自分の視野を広げることができるかどうか、世の中のために意義があるかどうかという観点から、よりチャレンジングな、難しい方向を選んでください。失敗しても必ず機会は訪れます。そういう意味で、難しいチャレンジングな仕事に進んで下さい。
最終提言発表
75名の参加学生は、自分たちが創る東北の未来へのマニフェストのために、3日間知恵を出し合い、意見をぶつけ合い、そして政策を作り上げました。現地のニーズに即した学生ならではの発想にあふれた提言発表会は、未来への希望に包まれました。
学生が当事者の東北復興。会場内にいる全員は、各チームによって発表されたマニフェストを吟味し、東北の未来を形作る1票を投じました。
最優秀チーム
「観光と地域活性化による復興」
(画像をクリックすると拡大します)
学生スピーチ
代表して閉会式でスピーチをしてくれた参加学生の体験をご紹介します。
(写真をクリックするとスピーチ内容が表示されます。)
家族を思って泣いた日も数えきれない。
私の使命は、自らの経験や日本の防災について伝えていくことだと考えています。
陸では自衛隊が、海では海上保安庁が必死で捜索をしてくれていた。私は、その姿を見て自分も海上保安官に絶対になりたいと思った。
私がたくさんの方々からきっかけやチャンスをいただいたように、私も誰かにきっかけやチャンスを与える側の人間になりたい。
宮城県石巻市から来ました。今年の春から、ビヨンドトゥモローの高校留学プログラムで、スイスのレザン・アメリカンスクールに留学しています。
1年前、震災から6か月後に初めて開催された東北未来リーダーズサミットの閉会式で、私は自分の体験を話しました。そして、私の話をきいて、手をさしのべてくれた多くの方々の支えで、私は今年の春から、スイスに留学することができました。
2011年3月11日、私は家にいた母と共に、津波に流されました。しばらく流されてがれきをかきわけて出ていくと、がれきの下から母が私の名前を呼ぶ声が聞こえました。がれきをよけると、くぎと木がささり、足は折れ、変わり果てた母の姿がありました。右足がはさまって抜けず、一生懸命がれきをよけようと頑張りましたが、私一人ではどうにもならないほどの重さ、大きさでした。母のことを助けたいけれど、このままここにいたらまた流されて死んでしまう。助けるか、逃げるか。私は自分の命を選びました。今思い出しても涙の止まらない選択です。最後その場を離れる時、母に何度も「ありがとう」「大好きだよ」と伝えました。「行かないで」という母を置いてきたことは本当につらかったし、もっともっと伝えたいこともたくさんあったし、これ以上つらいことはもう一生ないのではないかなと思います。その後私は泳いで小学校へと渡り一夜を明かしました。
この後も私が体験したことはもっともっとたくさんあります。辛くて死のうかと思った日もありました。なんでこんなに辛いんだろうと思った日もあるし、家族を思って泣いた日も数え切れないほどありました。震災で私ははかりしれないほど多くを失いました。
しかし、この震災によって得られたものもたくさんあります。
私は、このビヨンドトゥモローに参加して以来、たくさんの仲間、チャンスを得ました。私が1年間ここで出会った仲間は、学校でも家でも話せないような、震災の話、悩み相談、時にはたわいもない話、どんなことも話すことができます。また、ビヨンドトゥモローでの友達は私にとって家族、姉妹のような存在です。本当にみんなのことが大好きで、留学している今も、何かあればみんなに連絡をするし、いつもみんなに会いたいなぁと考えます。
次に私は、ビヨンドトゥモローで大きなチャンスを得ました。去年の9月から私は、今まで想像もできなかったようなたくさんの経験をしました。ダボス会議参加や米国プログラム、そして今の高校留学と、どれも本当に私にとって大きく、それは私の大きな支えです。私にとってこのチャンスは、大きな力や頑張る目的を与えてくれました。
私は、去年ここで、つらいことがあったからこそこんな自分になれたと思える日が来るように前を向いてしっかり頑張りたいと作文を読みました。この1年間を振り返ると、しっかり前を向き歩けているのではないかなと思います。
そして、今回2回目の東北未来リーダーズサミットに参加をし、新たな仲間と出会い、また、去年の仲間とも再会し、これからも頑張っていかなければいけないなという意思を再確認できました。
私は岩手県宮古市という沿岸の町に住んでいます。学校や家からも海が見えるほど海が身近なこの町で私は育ちました。
あの3月11日、地震が起きた時、ソフトボール部のキャプテンの私は、高総体に向けて、グラウンドで練習をしていました。地震の直後、学校に迎えに来てくれた母と一緒に、私は帰宅しようとしましたが、その途中で、津波に遭遇しました。大きな黒い津波に飲まれ、私は奇跡的に助かりましたが、母は亡くなりました。
私は、母を助けてあげられなかった、親孝行も出来なかったというたくさんの後悔をし、すぐに現実を受け入れることができませんでした。しかし、残された家族や友人・知人たちに支えられ、立ち直り、私は前に向かって歩くことができています。
未だに深い悲しみを抱えている人はいると思いますが、生きているのだから歩みを止めてはならないと思います。仮設住宅に一人で住んでいる老人がいるならば、まず外に出てみること、学生なら夢を持って自分の人生を歩むことなど、被災者には生き残った者としての使命があると考えます。今生きている私たちは、使命を果たすという気持ちと前に向かって歩み続けるということが、亡くなった方への恩返しであり、生きる希望となるのです。
私の使命は、自らの経験や日本の防災について伝えていくことだと考えています。将来はインドネシアのスマトラ島やハイチなどの津波や天災の被害にあった国で、日本政府やNGO・NPOの職員として働きたいという夢があります。東日本大震災をうけ、研究が進められたことで非常に高いレベルまで達している日本の防災への取り組みを伝えていきたいのです。スマトラ島やハイチでは、財政難ということでいまだに復興再建への活動が滞っていると知りました。ですから、私は、日本や他の国との連携を図りながら、途上国の防災への取り組みに財政支援を促す役割を担うなど、あらゆる方面で貢献できる人材になりたいと思います。
今を自分らしく生き、自分が決めた道を突き進むことが、母にできなかった親孝行であり、恩返しです。
2011年3月11日、東日本大震災が発生し、東北地方、関東地方の太平洋沿岸を襲いました。私の故郷である、宮城県南三陸町も大きな被害を受けました。
その日私は、幸いにも学校にいたため、私の身が津波の被害にあうことはありませんでした。私の家も、昔から家まで津波は来ないと聞かされて育ってきたので、あまり心配はしていませんでした。
しかし1週間後、迎えに来た母から2つの事実を聞かされました。1つは家が流されたということ、1つは、まだ父が帰ってきていないとのことでした。その日、父が避難していることを信じて、避難所を探しました。しかし、どこにもいませんでした。最後に、名前がないことを祈りながらも遺体安置場を探しました。結局名前は無く、どこか安心しましたことを覚えています。
しかしその後も、父親は一向に帰ってきませんでした。そして、震災から1ヶ月たった4月11日、母から遺体安置場で父親を見つけたとの連絡が入りました。信じることはできませんでした。次の日、私も遺体の確認へ行きました。そこには、変わり果てた父親の姿がありました。そんな父親を見た瞬間、やり場のない怒りと絶望感が私を襲いました。
それからは、絶望感だけで先のことなど何も考えることが出来ませんでした。そんな人々が絶望に暮れる中でも、陸では自衛隊が、海では海上保安庁が必死で捜索をしてくれていました。私は、その姿を見て自分も海上保安官に絶対になりたいと思いました。
学校が始まり、私は生徒会長になりました。学校にも、国内外からたくさんの支援を頂き、私達は1人ではない、と思うことができました。多くの人々の支援のお陰で、私も前を向こうと思うことが出来ました。
この東日本大震災で、沢山の人々が亡くなったり行方不明となられたりしました。私が今生きている今日という日は、亡くなられた方々が生きたかった今日でもあります。亡くなられた日々の分まで精一杯、今日の日を生きることが、私達、生かされた人間の使命だと思っています。
その使命を全うすべく、私は今日も精一杯生きていきます。
岩手県釜石市から来ました。
震災で私は家族全員を失いました。両親・姉・祖父母がいなくなり17年間暮らした家も失いました。これ以上失うものはないというくらい私はすべてを失いました。
3月11日地震の直後、私は母と祖母と高台に避難しました。しかし、黒い壁のような波は私たちのすぐ背後に迫っていました。その時、母が言った「津波だ」という言葉が、私が最後に聞いた母の言葉となりました。
走って坂を上り山を登り私は助かりました。でも、どこを探しても母と祖母の姿はありませんでした。翌日の朝、がれきの上を母と祖母の名前を呼びながら探しました。木にささったおばあさんを見たときは震えが止まりませんでした。あの時見たあの悲惨な光景は今でも私の頭から離れません。
数日後、姉がなくなったこと父が行方不明であることを知らされました。遺体安置所で姉と対面したとき、姉の頬を触り何度もありがとうと言いました。私の涙で冷たくなった姉の頬は濡れました。もしかしたら目を覚ましてくれるんじゃないか、そう思いました。姉から離れたくありませんでしたが、火葬して姉は灰になってしまいました。
そして行方不明の家族を探す日々が続きました。亡くなった人の写真がおさめられているファイルを一枚一枚めくって探しました。1ページ1ページめくる度に衝撃が走りました。まだ幼い女の子、手足が曲がったままの遺体、私はたくさんの遺体を見ました。
もし次のページが父だったら。母だったら。
早く見つけてあげたいけれど、事実を受けれる事が出来ず、ページをめくる事に途方もない恐怖を感じました。
その後、父と祖母は見つかりましたが、母と祖父は今も行方不明です。
たった一瞬にしてあまりにも多くのものを失い、なぜ自分だけが助かったのかと心も魂もどこかにいってしまった気持ちでした。震災直後はぼんやりと、高校を卒業したらどこかで働くのだろうと思っていました。けれど、震災の後にたくさんの方々に出会い、世界が広がり、人と人とのつながりの素晴らしさを知り、そしてその過程で芽生えたアメリカへの留学は劇的なスピードで実現し、今年の6月から、ミシガン州の高校に留学しています。
ルース大使、ビヨンドトゥモロー、他にもたくさんの、本当にたくさんの方々の支えで多くのチャンスや機会を得ることが出来ました。
チャンスは誰にでもあるわけではありません。私はあの日、死んでもおかしくありませんでした。でもこうして今ここに生きています。生かされています。
多くのものを失いましたが、多くのものを得ることが今の私に正直怖いものはもうありません。あのような体験をした私だからこそできる事があります。あの時の苦しみを思い出せば、なんだってすることができます。生きたくても生きれなかった人々がたくさんいる中、私は生きています。
人は助け合い、支えあい、思いやりながら生きているのだと改めて実感しました。私がたくさんの方々からきっかけやチャンスをいただいたように、私も誰かにきっかけやチャンスを与える側に人間になりたいと思っています。
過去は過去でもう戻ることはできません。でもこれからの自分の将来は変えることができるのです。当たり前のことですが、私にとってとても重みのある言葉です。時間は誰にでも平等です。だったらたくさんのことをしよう、そう思います。
将来はファッションデザイナーとして活躍し、世界に貢献できる人間になりたいと思います。そして単純な言葉ですが、”幸せになる”これが私ができる唯一の親孝行です。
きっと私は今までたくさんの人にかわいそうな子だと思われてきたでしょう。悔しいです。このような悔しさも私の原動力となっているでしょう。震災はもちろんない方がよかったけれど、辛い体験があって、今の自分があるとも思います。震災後にたくさんの出会いと劇的な人生の変化があり、今思うと、震災前の日々が、震災の後の人生のために存在していたような気すらします。3月11というあの日がなかったならば、私は今日という日を夢を持って生きていただろうかと自問します。
姉はいつも弱い立場にある人のために行動する人でした。父からは、思いやりを持って人と接することを学びました。母からは強く生きることを教わりました。3月11日あの日から家族を思わなかった日は一日もありません。
家族が私に残してくれた思いや意思を胸に、与えられたチャンスを大切に、自分の可能性を信じ、そして何よりも自分の気持ちに素直に生きていきたいと思います。
メディア掲載
新聞
- 「参加高校生を募集」 (2012年8月31日 東海新報)
- 「東北未来リーダーズサミット参加者募集」 (2012年8月31日 河北新報)
- 「サミットに参加を」 (2012年9月7日 三陸新報)
- 「東北未来リーダーズサミット2012参加高校生募集」 (2012年9月8日 岩手日報)
- 「東北の未来に提言を」 (2012年9月8日 福島民報)
- 「リーダーズサミット高校生募集」 (2012年9月12日 東海新報)
- 「東北の未来像を議論」 (2012年10月16日 岩手日報)
- 「東北の学生ら 未来を提言」(2012年10月27日読売新聞)
支援団体
ジャパン・ソサエティー
後援
文部科学省