G1グローバル・エクスペリエンス を開催致しました

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ビヨンドトゥモローは、11月3日(木・祝)に開催されたG1 Globalに、東北地方から高い志を持った学生を派遣する「ビヨンドトゥモローG1グローバル・エクスペリエンス」をKIBOWと共催で開催致しました。

G1 Globalは、世界中の様々な領域で活躍リーダーが東京に集まり、世界の潮流について議論する国際会議で、「震災後の日本の新生」というテーマで様々な議論が交わされました。その中で、東日本大震災によって被災した学生が、その体験と未来への展望を話すことで、広く世界に東北被災地の状況について発信する役割を果たすことを目的として、ビヨンドトゥモローの学生による特別セッション「Tohoku to the World」が開催されました。

本セッションでは、仙台育英学園高等学校の和太鼓部による復興・再生をテーマにした演奏に続き、岩手県宮古市出身で現在はウイーンを拠点に活躍するオペラ演出家の伊香修吾氏がモデレーターとして参加。そして下記4名の学生が、それぞれの体験と想いを発信し、聴衆から高い評価をいただきました。自己紹介は英語で話し、体験の内容からは日本語で話しながら逐次通訳をしました。
(下記、写真右奥から順)

 

日下 マリア(くさか・まりあ)仙台育英学園高等学校1年生

3月11日、友人の家に向かっている時に地震が起きました。友人と近くの学校に避難すると、津波が一帯を襲うのが見えました。母と弟は無事に避難していましたが、私は父と家を津波で失いました。父は、私たちを助けるために家に戻る途中で津波に命をさらわれました。

家族をいつも大切にしてくれていたたった一人のお父さんに会いたい。でも、今思うことは、お父さんが必死で守ろうとした家族を大切にして、お父さんの分まで頑張ろうということです。

津波があって、私は人の大切さを知り、人の役にたてる仕事をしたいと思っています。中でも、この地震と津波で、多くのお年寄りが亡くなったので、私は介護の仕事につきたいです。日本では、家が亡くなった人、親を亡くした小さい子供たちがたくさんいます。そのために、世界全体が一つになって立ち上がり、助ける必要があると思います。

菅原 彩加(すがわら・さやか)仙台育英学園高等学校1年生

 3月11日は、中学校の卒業式でした。10年間共に過ごした仲間とのすばらしい旅立ちの日、一生の思い出に残る良い日になるとばかり思っていました。

家に帰るとすぐに地震が起きました。今までに感じたことのないほど大きな揺れでした。地震が発生して、停電になってしまったため、テレビから情報を得ることが出来ず、携帯で津波がくるという情報を得て、逃げようとした時にはすでに遅く、地鳴りのような音と共に一瞬にして津波は家と私の家族を飲みこみました。がれきと黒い水に流され、「もう死ぬんだ」「高校の制服を着たかったな」と、たくさんのことが頭の中を駆け巡りました。

しばらく流されてがれきをかきわけて出ていくと、がれきの下から母が私の名前を呼ぶ声が聞こえました。がれきをよけると、くぎと木がささり、足は折れ、変わり果てた母の姿がありました。右足がはさまって抜けず、一生懸命がれきをよけようと頑張りましたが、私一人ではどうにもならないほどの重さ、大きさでした。母のことを助けたいけれど、このままここにいたらまた流されて死んでしまう。助けるか、逃げるか。私は自分の命を選びました。今思い出しても涙の止まらない選択です。最後その場を離れる時、母に何度も「ありがとう」「大好きだよ」と伝えました。「行かないで」という母を置いてきたことは本当につらかったし、もっともっと伝えたいこともたくさんあったし、これ以上つらいことはもう一生ないのではないかなと思います。その後私は泳いで小学校へと渡り一夜を明かしました。

その後も私が体験したことはもっともっとたくさんあります。辛くて死のうかと思った日もありました。なんでこんなに辛いんだろうと思った日もあるし、家族を思って泣いた日も数え切れないほどありました。今回の震災で私ははかりしれないほど多くを失いました。

しかし、この震災によって得られたものもたくさんあります。そしてそれはこれから、自分の気持ちや行動次第でいくらでも増やしていけると私は思います。他の人からみれば私はかわいそうな高校生かもしれませんが、私はそうは思いません。私には支えてくれるおじいさんやおばさんがいます。辛い時に助けてくれる友達がいます。このような経験をしたから得られたチャンスがあります。そして、どんなことも頑張れる自信もあります。また、辛い人の気持ちを分かってあげることもできます。

だから私は将来、私と同じつらい思いをしている子どもたちを助けられる仕事をしたいと思っています。また日本に支援をしてくれた国への恩返しとして、国際ボランティアにも取り組んでみたいです。

この先、辛いこともたくさんあると思いますが、私にしかできないこと、私だからできることをたくさんみつけて誰かの役にたち、失ったものと同じくらいのものを、人生を通して得ていきたいと思います。

梁田 麻佳(やなだ・あさか)岩手県立盛岡第一高等学校1年生

 地震が起きた時、私は中学生で、学校にいました。私の学校は防災訓練に力をいれていて、先生たちの指示ですぐに指定されていた避難所に避難しました。けれど、その避難所は十分に安全ではないという先生たちの判断で、より高い場所に移動しました。幼い低学年の子たちの手をひいて、必死に逃げました。

高台に着いた時、津波が私たちの学校や、最初に避難した場所を飲み込むのが見えました。先生たちのその場での判断がなかったら、私たちは全員、死ぬところでした。市内では、900人近くの人が亡くなり、200人がいまだ行方不明です。

避難所として指定されていた場所に逃げた多くの人が津波で命を落としました。その日学校を休んでいた同級生は、指定されていた避難所に逃げたために亡くなりました。私たちには、判断材料が少なすぎたのです。

だから、私は自分の経験を多くの人に伝えたい。そして災害に備えてほしい、ひとつでも多くの命を救ってほしい。難しいことだけれど、出来ないことではないと思います。

今、被災した若者は、それぞれの得意な分野で被災体験をいかそうとしています。私は以前から芸能や放送関係に関心があり、特に声優になりたいと思っているので、自分の表現への関心をもって、この震災について多くの人に語り継ぎたいと思っています。

志田 潤平(しだ・じゅんぺい)岩手大学1年生

 私が今回、東日本大震災を経験して伝えたいことがあります。

それは、日本の団結力です。私の住んでいる地域では、津波の被害で残った家がわずか3軒。1軒は床上浸水したために震災当日は2軒に90人もの人々が衣食住を共にしました。横にもなれず座ったまま朝をむかえました。地域の人々は一緒に津波で流された食料を確保したり、山の水を民家にひいたりしました。誰一人として身勝手な行動をせず規律を破る人はいませんでした。一人だけではできないことをみんなで協力することで乗り切ったことが多くありました。地域の人々は津波という大きな被害にあったという境遇を共有していたからこそ団結したのではないかと思います。

私は将来、岩手県の県庁の復興を担当する部署で、都市計画の仕事につきたいと思っています。今回の津波は私たちの予想をはるかに上回るものであり、津波の避難場所として指定されていたところまで被害にあってしまいました。また、ここ数十年の間に埋め立てが進んで地形が変わったために、想定していた浸水地域が変化していたことが、ハザードマップを作成する上で考慮されていなかったとききました。こういった地形の変化も考慮に入れながら、防災計画を作らなければならないと感じました。今回の津波をもとに、もう一度、津波のハザードマップを見直し、作成することで、次にくる津波に備えなければならないと思います。また、被災者ならではの考えを取り入れることで、防災に強い街づくりを行っていけるのではないかと考えています。

伊香 修吾(オペラ演出家)