山内菜々夏

山内菜々夏

九州大学法学部(熊本県立済々黌高等学校卒業)

“お母さんを死なせてしまった自分が夢をかなえたりしていいのだろうか、と悩んでいた自分に、夢をあきらめてはいけない、と応援してくれる人たちがいた”

小学校6年生の時に最愛の母を亡くす。母の死について、何もできなかったことを悔やんだ日々もあったが、母の想いに応えたいという気持ちと、産んでくれた母への感謝が原動力となり、強く生きていこうと決意することができたと感じている。経済的な事情で進学を諦めかけていた時、高校2年生の時にビヨンドトゥモローに初めて参加し、誰にも語ったことのなかった自分の経験を話すことができた。道に迷いかけていた自分を、多くの人が励ましてくれたことから、夢を諦めずに追いかけることを決意。将来は、法律家となり、奨学金制度の充実や、親のいない子どもの支援に携わり、誰もが安心できる社会を築く力となりたい。

ストーリー

私は、小学生の時に、母を亡くしました。私をみごもっていた時に病気が発覚した母は、それでも私を産むという決断をしてくれて、でもそこから入退院を繰り返すことになりました。父の会社が倒産したり、父にがんがみつかって入院することになったりと、大変なこともあった中、小学5年の時に、母が中学受験をすすめてくれました。こんな時に中学受験をしていいものかわからず悩みましたが、母の「あなたが頑張っている姿が励みになるから」と言われ、中学受験を決意しました。

一方で、母の病気は悪化していきました。病気柄、アルコールを摂取してはいけなかったのですが、母はアルコール依存症のようになっていて、隠れてお酒をのんでいました。母にお酒を買ってきてと言われると、断って荒れる母をみるのが嫌で、買いに行きました。私はその頃の記憶がほとんどないのですが、気が付いたら、家のカーテンがしめられ、電気が消え、母が動けなくなっていました。食べるものもなく、冷蔵庫の中をあさり、食べ物を探しました。やっと父が退院してきて、その翌日に母が入院し、その後、母が家に帰ってくることはありませんでした。

小学校6年生の冬、年が明けると母はもう話せなくなっていて、病院に行って、話せない母に会うのが嫌で、私は受験勉強を言い訳に、病院に行くのを避けていました。中学受験には無事合格し、父がそれを母に報告すると、母は笑ったそうです。その後、母の顔に表情が生まれることはなく、それが最後の笑顔だったとききました。でも私は、その後、母が危篤となり、危ないと言われても、行かない、と言い、母の死に目に会うこともできませんでした。

母の死後、父から、母が私のことを「あの子は大丈夫だから」と言っていたときき、自分はなんてことをしてまったんだろう、と、ショックを受けました。母は私を応援してくれていたのに、お酒を買ってきたりして、母を殺す手伝いをしてしまったと、後悔の気持ちがこみあげました。お母さんを私が死なせてしまったのに、中学に行って夢をかなえたりしていいのだろうかと思いました。でも、母と約束したことは全部やろうと思って、英語を勉強したり、自分にできることにとりくんできました。

私の父は高齢で、既に年金暮らしなため、経済的には厳しく、自分が進学していいのかという葛藤がありました。そんな時、高校2年生でビヨンドトゥモローのリーダーズサミットに参加し、そこでの出会いが私を大きく変えました。「私に夢を追う資格なんてあるんだろうか」と言う私に、「後悔はあるかもしれないけれど、それを夢をあきらめることにつなげてはだめだよ」と言ってくれたり、「これだけやりたいことがあるのにあきらめちゃだめだよ」と言ってくれる人がいて、私が夢を追いかけることを応援してくれる人たちがいるということを知りました。

そこから弁護士になるために、法学部に進学するという決心をして勉強に励み、現在、弁護士資格をとることをめざして、法律の勉強をしています。

将来は、人に寄り添える弁護士になることが私の夢です。母を亡くして命の大切さがみにしみているので、命がないがしろにされる世界はあってはならいと思うし、命があっても権利がない世界も変えていかなければならないと思っているので、そういう大切なテーマに取り組んでいきたいと思います。