萩原みらい

萩原みらい

福島大学人間発達文化学類(群馬県立渋川女子高等学校卒業)

“ビヨンドトゥモローに来て、仲間たちに出会って、初めて、自分の暗い過去を力に変えることができた”

高校3年次に父が自殺。父の死、父の人生と向き合うことは、今まで見えていなかったことを自分にまっすぐに教えてくれたと思う。幼い頃から、安全に暮らしたいという理由で公務員を希望していたが、「やりたいことを職業にする」と決め、声楽と音楽教育に携わることを目指すことを決意。ビヨンドトゥモローの学生たちが、様々な背景を持ち、過去や現在と向き合いながら、自分の役割を探す姿がきらきらとまぶしく見え、自分もその気概に触れたいと考え、プログラムに応募した。ビヨンドトゥモローの仲間たちとの会話の中で、初めて自分のバックグラウンドを人に話すことができ、前向きで柔らかい思考をできるようになったと思う。

ストーリー

高校3年生の誕生日に、大好きだった父が、首をつって亡くなりました。4人姉妹の中で、私が一番父になついていたので、父は、自分のことを忘れないでほしかったのだと思います。

幼い頃から、私の家では、父を怒らせたら暴力をふるわれる、ということが当たり前だったので、父が正しいと信じ、暴力をふるわれる自分が悪いのだと思って育ちました。でも、中学生になると、父が正しいというわけではないのではないかということに気づきはじめ、それまで絶対的に崇拝する対象だったものがそうではないとなった時、心が不安定になりました。それまでは父を喜ばせるということが何をやる時も目的だったので、その目的がなくなった時、何も頑張れなくなってしまうほどでした。一日に何度も吐き、食事をとれなくなり、体がおかしいということに気づいた時に、自分の心がつらいということに気づくことになりました。

上の姉たちは、父が怖いからという理由で家を出て行き、父は、だんだん精神的な面が悪化していきました。亡くなる前の半年間は、自室にひきこもり、会うことはとても少なくなっていました。何週間に一回かくらいの頻度で、父がリビングに来ると、家具にがしゃーんと当たったり、叫んだり、暴力をふるったり、という日々で、父の存在におびえる日々でした。でも、死ね、消えろ、と言われたり、手をあげられたりしても、私は父を憎むことができず、最後まで、大好きだよ、と伝え続けました。私が姉妹の中で一番父に似ていたので、私が気に食わないことをすると、誰よりも執拗にいじめられたけれど、でも、父は、最後まで優しさを捨てきれない人だった、と思っています。

私の人生のとても大きな部分を父が占めていたので、父が亡くなった時、自分も、これで終わりにしてもいいんじゃないかな、と思いました。そして、それまでは、父が望む安定した職業を望んでいたので、県内の国公立大学に行くのだろうと思っていましたが、父が亡くなって、自分が好きだった音楽の道を進もうと考え、今、自分の望む道を生きることができています。

高校3年生の時、担任の先生が、ビヨンドトゥモローのチラシを私にくれました。最初は、暗い過去とか辛い体験にスポットライトを当てるのが嫌で、いい印象を持ちませんでした。私の特徴は、暗い過去ではないし、そこに焦点を当てられるのは嫌だ、と思いました。でも、ビヨンドトゥモローの活動をホームページで見て、自分と同い年くらいの子たちが、壮絶な人生を生きながらも、卑屈になっていないことに驚きました。自分は、暗い過去にふたをして、でも、自分がマイナスな思考をする時とか、何かをあきらめる時にだけ、自分の暗い過去を言い訳につかっているということに気づきました。

そしてビヨンドトゥモローに来て、仲間たちに出会って、初めて、自分の暗い過去を力に変えることができたように感じています。暗い過去があるからこそ、人の心の痛みに想いをはせることができたり、人がよくないと言われることをしている時でも、そこに至る過程があるということに気づくことができました。私の父も、はたから見れば悪い父親だったかもしれないけれど、父も、明るくない環境で育ち、その中で一生懸命に生きて、そのような状況になっていたのだとも思っています。

ビヨンドトゥモローの活動の中で、自分の体験を話す時、私は最初、うまく話すことができませんでした。言いたいことを隠したり、本質をずらしてしまったり、言葉が出過ぎてしまったり、うまく話せなくて、後悔したり、自分が嫌になることがありました。でも、人の心の揺れや動きというのはとても複雑で、ドラマみたいにわかりやすいものではないので、後悔や自己嫌悪を1年間重ねて、私は、自分のありのままの心に近づいてくることができました。だから、ビヨンドトゥモローという場所が、これから参加する仲間たちにとって、自分が思うように、思ったことを言える場所であってほしいと願っています。