ビヨンドトゥモロー 米国スプリングプログラム2012


東日本大震災により被災し、大切な家族を亡くすなど辛く大変な経験しながらも前を向き、世界へ発信する意欲を持つ3名の高校生が参加しました。 ロングウッド・シンフォニー・オーケストラのコンサートでのスピーチ、ハーバード大学、ブラウン大学、マサチューセッツ工科大学への訪問などを通して、自らの経験を発信し、また様々な方との出逢いや対話を通してグローバルな視野を持ち、学び、自らが果たすべき社会的な役割について考える機会となりました。

プログラムの目的

  1. 東日本大震災での経験をアメリカの人々と共有する事により、東北の高校生たちが東北のアンバサダーとして活動する。
  2. 東日本大震災のコンテクストにおいて、日米交流を促進する。
  3. ビヨンドトゥモローのグローバルリーダーシップ教育の一環として、東北の高校生たちにアメリカの文化に触れる機会を提供する。

時間・場所

2012年3月15日(木)~21日(水) マサチューセッツ州ボストン、および、ロードアイランド州プロビデンス

参加者

 千葉真英(ちば・まさひで) 大船渡にて被災。津波によって母親と祖母を亡くし、家も流された。現在は父親と二人の弟と一緒に大船渡の賃貸住宅で生活している。多くの命が犠牲になった中で自分は助かったという経験から、将来は地元の復興と、自然災害に備えた街づくりに貢献することが生き残った者の使命であると考えている。三陸沿岸地域の災害に強い街づくりに参加し、復興に関する事業を行う会社を立ち上げたいと考えている。
 小川彩加(おがわ・あやか) 津波によって両親、祖父母、姉を亡くし、現在、親戚と仮設住宅に暮らす。家族を失いながらも自分だけが助かったからには、悔いのない人生を送りたいと、かねてから関心のあった海外留学を決意。震災後の夏休みにはオーストラリアで短期ホームステイを体験した。震災後、自らに与えられた多くの機会への感謝から、将来は、自らも人に希望を与えられる人になりたいと考えている。
 菅原彩加(すがわら・さやか) 石巻市にて被災。津波によって母、祖母、曾祖母を失う。現在は石巻市の仮設住宅で祖父と生活している。震災から6ヶ月後、中国にて開催された夏季ダボス会議に参加し、世界のリーダーに向けて自身の経験を伝えた。将来は、自分が体験したような辛い思いをしている子供のために働きたい。また、震災後に日本に支援をしてくれた国々への恩返しとして、国際ボランティアにも取り組みたい。今春より、スイスにあるインターナショナル・ボーディング・スクールで新たな生活を始める。

プログラム日程

オリエンテーション 1日目(東京) スピーチ練習 ビヨンドトゥモロー発起人との夕食
オリエンテーション 2日目(東京) アメリカの文化および歴史 英会話練習 スピーチ練習 ロバート・フェルドマン氏との対話セッション 国際協力機構理事長 緒方貞子氏による講演参加
1日目 米国到着 ホストファミリーとの夕食
2日目 マサチューセッツ工科大学(メディアラボ、都市計画研究学部)訪問 ニューバリーストリート、ボストン公共図書館 ボストン東日本大震災復興基金のメンバーとの歓迎夕食会
3日目 ボストン美術館、中華街 スピーチリハーサル ロングウッド・シンフォニー・オーケストラのコンサート”HOPE for Tohoku”にてスピーチ
4日目 クインシー・マーケット、ビーコンヒルでのブランチ ボストン・ボーイズ・アンド・ガールズ・クラブとの文化交流プログラム
5日目 ハーバード大学訪問 エマーソン・カレッジ訪問 ホストファミリーとの送別夕食会
6日目 プロビデンス、ブラウン大学に向け電車移動 ブラウン大学スター・フェローズと昼食 キャンパスツアー、学部生授業(政治科学、物理学)体験 ブラウン・デイリー・ヘラルド紙による取材 ビヨンドトゥモロー特別セッション “Orphaned by the Wave” ブラウン大学学生による歓迎会・夕食会
7日目 出国・日本に帰国

ブラウン・デイリー・ヘラルド紙

ブラウン大学の新聞にてビヨンドトゥモローを紹介いただきました。

スピーチ原稿

千葉真英 岩手県大船渡から来ました千葉真英です。このように自分の考えを発信する機会を与えてくれたアメリカの人々にとても感謝しています。これから私が震災で体験したこと、考えたことを話します。 震災の前日のことを思えば、おかしな日でした。校庭の上空はまだ午後4時だというのに深い赤に染まり、そこには夥しい数の鳥が群がっていたのです。何かがおかしいことに気付いていれば。今でもそう思います。 2011 年3月11日14時46分18秒。地震が発生した時、部活動中でした。未だ体験したことのない揺れに、多くの生徒たちが興奮している様子でした。表情には笑いすら浮かんでいました。これからどれだけの悲しみを味わうことになるかも知らず、心のどこかで期待していた非日常の訪れを私たちは密かに面白がってすらいたのです。 海から50mの近さにある自宅と連絡はとれませんでしたが、裏山に避難しているはずだと大して心配もせず、学校で一夜を明かし、翌日の朝、三陸鉄道のトンネルを通って、1時間程の道のりを歩いて帰りました。トンネルを抜けた時、建物のない光景が広がりました。それは、それまでに得た情報で覚悟はしていた光景でしたが、その世界には、覚悟していなかった事実がありました。 それは、この世界から、母と祖母が消えていたことでした。 母と祖母が亡くなったと聞かされた時、まったく意味が分からなくなりましたが、家の裏の山へ連れて行かれ、車の中に母の脚を見た瞬間、今朝の母の顔や、これまでの毎日を思い出し、どんなに、どんなに辛かったかと思うと、叫ばずにいられませんでした。私の手が母の顔を包んでも、その温もりも冷えていくばかりで、温かさが返ってくることは、決してありませんでした。 火葬はたまらなく嫌でした。火葬しなくてはならないが、して欲しくないジレンマに悩み、母の肉体が火の中に消えていくのは本当に耐えられませんでした。 それからの毎日に意味が見出せず、「大丈夫か」と聞かれても、何が大丈夫なのか分からないままに笑顔を作りました。毎日、夢中で瓦礫を片付けました。母が津波にのまれたのは、私や弟たちの学習道具を二階に運んでいたからだと聞き、毎晩寝られず自分を責めました。あの朝何かが変わっていればといつも思いました。 それでも自ら命を絶たずに生きてきたのは、母や祖母、そして家族のために少しでも故郷の復興に尽力したいと思ったからでした。そしてそれこそが生き残った私の使命だと考えるようになりました。 私の住む大船渡市は水産物を軸に発展してきた街なので、魚や加工品を運ぶ交通網の整備を行う必要があると考えています。そこでただ元の大船渡市に戻すのではなく、災害に強く、住みやすい街にできるよう、大学で建設工学を学びたいと考えています。 生き残った私にはやるべきことが多くありますが、人々の心から東日本大震災という出来事が風化していかないようにすることこそ大切であると思います。今日本では、南海トラフ、都市直下型などの巨大地震の想定が出ています。そのような状況の中で今回の震災を教訓にし、私たちが体験したことを発信していくこと で、災害を防ぐことはできなくとも、迅速に避難し、地震に対する意識を高く保つ続け、被害を最小限に抑えることはできると思います。そうなっていけば、本当の意味での教訓が生きたということになっていくんだと思います。 私のように悲しい思いをする子がこれ以上生まれないよう、心の中で永遠に生き続ける母と共に強く生きていきたいと思います。 私はアメリカへ来るのが初めてで、海の向こうの人たちが私たちの話をどう受け止めてくれるのかにとても関心がありました。私の話を聞いてくれた人が考えたこと、感じたことを更に他の人へ発信し、世界中の多くの人が自ら発信者となってもらえたら、こんなに嬉しいことはありません。今日は本当にありがとうございました。
小川彩加 小川彩加です。岩手県釜石市から来ました。 震災で、私は家族全員を失いました。両親、姉、祖父母の全員がいなくなり、17年間暮らした家も失いました。これ以上失うものはないというくらい私は全てを失い、一人ぼっちになりました。 3月11日、地震の直後、私は母と祖母と3人で高台に避難しました。しかし、黒い壁のような波は、私たちのすぐ背後に迫っていました。その時、母が言った「津波だ」という言葉が、私が最後にきいた母の言葉となりました。 走って坂を登り、山を登り、私は助かりました。でも、どこを探しても母と祖母の姿はありませんでした。翌日の朝、がれきの上を、母と祖母の名前を呼びながら探しました。悲惨な光景で、倒れた木に刺さったおばあさんを見た時は、震えが止まりませんでした。 数日後、姉が亡くなったこと、父が行方不明であることを知らされました。何が何だか分からなくなりましたが、一人になってしまったのだと恐怖を感じました。 遺体安置所で、姉と対面した時、姉の頬を触り、何度もありがとうと言いました。私の涙で姉の顔は濡れました。姉から離れたくありませんでしたが、火葬して、姉は灰になってしまいました。 そして、行方不明の家族を探す日々が続きました。亡くなった人の写真がおさめられているファイルを一枚一枚めくって探しました。1ページ1ページめくる度に衝撃が走りました。まだ幼い女の子、手足が曲がったままの遺体、たくさんの遺体を見ました。 もし次のページが母だったら。父だったら。 早く見つけてあげたいけれど、家族が全員いなくなり一人ぼっちになってしまったという事実を受け入れることができない私は、ページをめくることが本当に怖かったです。 その後、祖母と父はみつかりましたが、母と祖父は今も行方不明です。 なぜ自分の命だけ助かったのかと、心も魂もどこかにいってしまった気持ちでした。けれど、震災の後にたくさんの人々に出会い、世界が広がり、人と人とのつながりの素晴らしさを知ることができました。 そして今、私は新たな夢にむかって歩くことができています。今年の秋から、アメリカに留学し、ファッションデザイナーを目指します。 姉は、いつも弱い立場にある人のために行動する人でした。父からは、思いやりをもって人と接することを学びました。母からは、強く生きることを教わりました。家族が私に残してくれた想いや意志を胸に、与えられたチャンスを大切に、自分の可能性を信じ、そして何よりも自分の気持ちに素直に生きていきたいと思っています。私らしく。
菅原彩加 菅原彩加です。石巻市から来ました。 3月11日は、中学校の卒業式でした。10年間共に過ごした仲間とのすばらしい旅立ちの日、一生の思い出に残る良い日になるとばかり思っていました。 家に帰るとすぐに地震が起きました。今までに感じたことのないほど大きな揺れでした。地震が発生して、停電になってしまったため、テレビから情報を得ることが出来ず、携帯で津波がくるという情報を得て、逃げようとした時にはすでに遅く、地鳴りのような音と共に一瞬にして津波は家と私の家族を飲みこみました。 がれきと黒い水に流され、「もう死ぬんだ」「高校の制服を着たかったな」と、たくさんのことが頭の中を駆け巡りました。 しばらく流されてがれきをかきわけて出ていくと、がれきの下から母が私の名前を呼ぶ声が聞こえました。がれきをよけると、くぎと木がささり、足は折れ、変わり果てた母の姿がありました。右足がはさまって抜けず、一生懸命がれきをよけようと頑張りましたが、私一人ではどうにもならないほどの重さ、大きさでし た。母のことを助けたいけれど、このままここにいたらまた流されて死んでしまう。助けるか、逃げるか。私は自分の命を選びました。今思い出しても涙の止まらない選択です。最後その場を離れる時、母に何度も「ありがとう」「大好きだよ」と伝えました。「行かないで」という母を置いてきたことは本当につらかったし、もっともっと伝えたいこともたくさんあったし、これ以上つらいことはもう一生ないのではないかなと思います。その後私は泳いで小学校へと渡り一夜を 明かしました。 この後も私が体験したことはもっともっとたくさんあります。辛くて死のうかと思った日もありました。なんでこんなに辛いんだろうと思った日もあるし、家族を思って泣いた日も数え切れないほどありました。今回の震災で私ははかりしれないほど多くを失いました。 しかし、この震災によって得られたものもたくさんあります。そしてそれはこれから、自分の気持ちや行動次第でいくらでも増やしていけると私は思います。他の人からみれば私はかわいそうな高校生かもしれませんが、私はそうは思いません。私には支えてくれるおじいさんやおばさんがいます。辛い時に助けてくれる友達がいます。このような経験をしたから得られたチャンスがあります。そして、どんなことも頑張れる自信もあります。また、辛い人の気持ちを分かってあげる こともできます。 だから私は将来、私と同じつらい思いをしている子どもたちを助けられる仕事をしたいと思っています。また日本に支援をしてくれた国への恩返しとして、国際ボランティアにも取り組んでみたいです。 この先、辛いこともたくさんあると思いますが、私にしかできないこと、私だからできることをたくさんみつけて誰かの役にたち、失ったものと同じくらいのものを、人生を通して得ていきたいと思います。 ビヨンドトゥモローのプログラムに参加して以来、一緒に前に向かって歩ける同じ境遇にいる仲間と出会いました。励ましてくれるリーダーたちにも出会いました。たくさんの声に背中を押されて、私は今月からスイスに留学する予定です。辛い体験があったからこそこんな自分になれたと思える日が来るように、しっかりと生きて行きたいと思います。 多くの人の命が失われた震災から一年が経ち、私は新しい道を歩くことができています。今の私の一番の願いは、この震災のことを一人でも多くの人に覚えてもらい、震災について考えてもらうということです。今回、アメリカの方々にこうして話をできる機会があることをうれしく思っています。スイスに行っても、大好きな日本のこと、東北のことを考え、震災が風化しないように発信し、活動していきたいと思います。 アメリカの方々に感謝します。全てのご支援にありがとうを言いたいです。