ビヨンドトゥモローの発足以来、東北に生きる学生がそれぞれの被災経験を知り、復興にかける将来への決意を共有したことや、様々なリーダーと対話を重ねたことが、私たちビヨンドトゥモロー参加者たちにこれからの希望を与えてくれました。いま東北に生きる学生は、あの時何を思い、そしてこれからどう行動を起こしていくのか、世界中の多くの人々にも知ってもらいたいという想いから、今回このような形で東北の学生の生の声をみなさんにお届けするというプロジェクトを企画しました。前を向いて歩き始めている姿をより多くの方に見て頂く事が、私たちビヨンドトゥモローの学生たちの願いです。
(佐藤滉 さとう・こう)
阿部菜穂(あべ・なほ)
宮城県気仙沼高等学校を卒業後、帝京平成大学健康メディカル学部に進学予定
宮城県南三陸町で被災。母と一度は高台に避難したものの津波にのまれ、自身は奇跡的に一命をとりとめたものの、最愛の母を亡くす。震災を経て、救命士である父の影響を受けて志した職業である臨床工学技士の資格を取得できる大学に進学を決意。大学生活では、途上国の貧困や飢餓問題の解決にも貢献すべくNPOの活動などにも参加したい。津波で命を絶たれた母の無念さを心に置きながら、他の辛い思いを抱えている誰かに寄り添い、夢を与えられる人になりたいと考えている。
ほっと落ち着けるあたたかい家、いつも見守ってくれた母や友人、思い出の場所。これが私の失ったものです。今まで当たり前に触れていた日常が、一瞬にして記憶という形のないものになりました。
震災後、様々な機会に参加し、私は行動力、物事への関心・意欲が高まったと感じます。またたくさんの出会いも得ました。出会った方々は、1人で行き詰まっていた私に、多くのヒントをくれました。特に、進路のことや、これから先生きていくためのことについては、たくさん吸収することがありました。投げやりになり、死んでしまいたいこともありましたが、母のくれた命を大切にしたいとみなさんのおかげで思うようになりました。
「自分より大変な誰かのために生きたい」「私たちがこうして過ごしている今、辛さを感じている誰かに少しでも希望を見いだせるよう手伝いをしたい」と震災を体験して私は思いました。
濁流から生き残り、再び夢を持つことのできた私だから伝えられることがあると信じて、情報発信などの活動をしていきたいと思います。飢餓などの国際問題にも興味があるので、これから大学で学ぶ医療面からアタックし、それを被災地の復興にリンクさせていけるよう、1年間自分と向き合い進んでいきます。
今井友理恵(いまい・ゆりえ)
岩手県立盛岡第一高等学校を卒業、慶應義塾大学法学部に進学予定
震災を通して、この未曾有の大惨事を経験したからこそ得られた、人に対する思いやりの心や共感力を持って、人々に元気を与えられる、視聴者に寄り添ったアナウンサーになりたいと強く思うようになった。東北の生の声を発信し続け、何年かかっても必ず愛する故郷を取り戻すこと、自分たちこそが日本を引っ張っていくリーダーになること、それが支えて下さっている全ての方々への恩返しとなると考え、震災のことをより多くの人に発信し続けていきたいと考えている。
私はこの震災を経験して「当たり前」という概念が自分の中から崩れ去りました。家族や友人がいて、生活する場所や食べ物があって、学校にいくことができて・・・。それまで当たり前でしかなかったことが、そうではないと思い知らされました。また、少しくらいの地震なら大丈夫という、自然災害への軽視や、明日も無事に生きていられるという保証もなくなりました。
震災によって失われたものははかり知れないけれど、発見できたものも沢山あります。まず、私が毎日を平穏に過ごすことができている背景には、無数の組織や人々の努力があるということを初めて認識することができました。同時に、人は1人では無力な存在であること、自分は社会に活かされているのだということを強く実感し、身近な人や小さなことにも感謝できるようになりました。また、常に後悔のない選択をすることや、相手を理解しようとすることの大切さも再確認できました。
私は小学校の頃から、アナウンサーになりたいという夢を持ち続けています。もともと、若者の政治離れを改善するために、分かりやすく、若い人でも興味を持てるような伝え方のできるアナウンサーになりたいと考えていました。
震災を経て、マスメディアの影響力の大きさを改めて感じ、視聴者に寄り添った報道をしたいという思いがさらに強まりました。また、被災をしていない地域の日本人、ましてや海外の人などは、報道で得られる情報が殆どであり、良くも悪くもイメージを植えつけてしまいます。そのことが風評被害にもつながっており、震災を経験したからこそその問題点を見つけることができました。そして、最近問題視されている”震災の風化”を食い止めるためにも、マスメディアの役割は大きいと思います。震災が一時的なブームにならないよう、継続的に人々の心に残していきたいです。
このようなことを実現するために、私はこの春から大学でマスメディアと社会の関わりについて学び、放送研究会などで実践的に経験を積んでいこうと思っています。そして必ず、震災で得た共感力を大切にしたアナウンサーになり、東北の代表として活躍する姿を見せることで地元に元気を届けます。
遠藤見倫(えんどうみのり)
宮城県石巻北高等学校を卒業、石巻専修大学経営学部に進学予定
震災で父と家を亡くし、絶望の淵におかれる思いをしながらも、震災のことを多くの人に知ってもらいたいと、写真部の部長として活動した経験を活かして、被災地における津波の爪痕を写真に残し、メディアを通して発信したという経験を持つ。震災を経験した者として、被災地の「今」を発信していきたいという意欲を持ち、未来においては「今」を「過去」にすることなく、生きている瞬間を心に刻み続けられるような活動をしていきたいと考えている。
私が個人的に失って大きいものは「父親」という存在です。亡くなったからこそわかる親のありがたさ、何にも変えられない存在であることがわかりました。心の中にポッカリと穴の空いたような感覚、なにか代わりができると思っていましたが、今も大きな穴が空いています。精神的支えが無くなって、不安定になっていました。
そして、人口の少ない中で近所付き合いが多かった地元・雄勝町。今は、仮設住まいの町民が多く、誰がどこにいるのかも定かではありません。町民の人に会ったら、泣き合っています。「また皆で、お茶のみすっぺし」とか「○○県に引っ越すから会えねぐなるな」と言われます。
今まで当たり前と思ってきた風景や常識は、瞬く間に、全てを奪っていきました。
震災後見つけたものは、体験したことは違えど、意見を共有し合える仲間です。数日しか会って話していないのに、絆が生まれて、より濃い関係が築けました。学校ではあり得ないほど深く考え、相手を想い、相手に伝えられるのかということを、ビヨンドトゥモローを通じて学び、私の将来の糧となりました。
また、自分から行動することによって世界が変わったり、視野が広がることを知ることができたので、自ら行動するという新たな考え方を見つけられました。
その他には、言葉に出すことによって相手がどう思うかということがコミュニケーションをとる上で大切なのだと思えました。TVの取材を受けて、それを思いました。悪意がなくても、言うことによって傷つく人はいるし、自信も傷つけられる体験は、今思うと良い経験です。
私は、この1年間のうちに様々な人に助けられました。Twitterやブログで知り合った人。顔も本名も、言っていることが事実かどうかもわからないのに、事実として受け取ってくれる人たちがたくさんいました。
その人達に私がどう恩返しできるかを、今も悩んでいます。手探りの状態の中で私に一番できることは「今」起きた事実を「過去」にしないことだと考えました。少しずつ、自身の体験や聞いた話、ニュースになったことなどを書いてきました。写真を撮ることのきっかけを与えてくれたのは父親で、だからこそ、できるだけ写真付きで発信していこうと思いました。私の中で絶対に良いとは言えません。私が自分勝手にその時の気持ちをリアルに書いたので、少しの人にでも私がどう思っているかというのを伝えられたらと思い、続けてきました。そしてこれから先も続けていきます。
震災後の約1年間は、主に「発信」をメインに私なりに動いていました。これからの1年間は、私が成長するために、目標を、大学やビヨンドトゥモローを通じて見つけていきたいです。成長には、お世話になった人たちへの感謝という意味も込めています。明確なものはまだ見つけられていませんが、人との想いを共有して、その人の夢を応援できる人になりたいです。
私が絶望的だった時、助けてくれたのは人とのつながりでした。ですから、私が多くの人と関わり、一人でも役に立てられるように、様々なことにチャレンジして、また1年後、成長できた自分に会いたいです。
小川彩加(おがわ・あやか)
岩手県立大槌高等学校卒業、9月より海外のボーディングスクールへ留学予定
津波によって両親、祖父母、姉を亡くし、現在、親戚と仮設住宅に暮らす。家族を失いながらも自分だけが助かったからには、悔いのない人生を送りたいと、かねてから関心のあった海外留学を決意。震災後の夏休みにはオーストラリアで短期ホームステイを体験した。震災後、自らに与えられた多くの機会への感謝から、将来は、自らも人に希望を与えられる人になりたいと考えている。
私は震災により、両親、祖父母、姉という大切な家族を失いました。6人家族だった私は1人になってしまいました。17年間暮らした家も失いました。思い出の物も何も残りませんでした。大好きなふるさとの景色も、もう見ることができません。もう失うものはないと思っていました。
震災のおかげで、自分の強さを知りました。ただただ泣くばかりの日々。生きている意味がわからなくなった日々。死にたいとまで思ってしまったあの時があって今の私がいるのだということを忘れません。これから先どんなことがあろうと、私なら乗り越えられるのではないかと思います。
私は震災により、多くのものを失ったけれど、たくさんの出会いがあり、つながりが出来、チャンスももらい、多くのものを得ました。そして、何気ない日常がどれほど幸せだったかを思い知らされました。私は生かされているのだと知りました。明日がかならず来る保証がある人は誰一人いません。悔いのない人生を送りたいと強く思うようになりました。これからは、これからの事を考えなくてはなりません。私には夢があります。それは世界で活躍するファッションデザイナーになることです。そのためにも、視野を広げるため、世界で活躍するため、英語を身につけるために留学をしたいです。せっかく生かされているのだから、いろいろな世界を見て、聞いて、感じて、知りたいと思っています。そして留学前にまず日本を知ることが重要ではないかと考えます。まず、第一の目標として私は富士山に登ります。そして、さらに挑戦していきたいです。夢は大きく持ち続け、これからも自分の可能性を信じます。
小野寺栄(おのでら・さかえ)
仙台育英学園高等学校を卒業、早稲田大学商学部に進学予定
震災により、気仙沼の家を失う。悲惨な震災が自らの人生の良い転機だったと思えるよう、震災を経験した自分たちだからこそできることを模索し、「社会貢献」の精神を持って世の中を良くするために積極的にアクションを起こしていきたいと考えている。将来は、国際機関における開発途上国の支援や国づくり、国際ビジネスなどに携わる、海外で活躍できる人材になることが夢。
住んでいた家や、家族が経営していたホテルが津波により甚大な被害を受けた。それに伴い、周囲のような環境が変化し、震災前は当たり前だと思っていた日常が大きく変わっていった。
震災後、変わり果てた故郷の姿を目の当たりにし、一度は絶望感を覚えたが、将来に不安を抱くお年寄りの声を聞いて「若い世代が復興させていかねばならない」という使命感が芽生えた。またビヨンドトゥモローを通して各界のリーダーの方々と対話させて頂いたことで、自分も将来は社会の一員として、日本に、そして世界に貢献できるような人間になりたいという思いを抱いた。
将来やってみたいことはたくさんあるので、まだ絞りきれていないが、被災地と国を、国と世界をつなぐ架け橋のような存在になりたい。震災というつらい経験をした私だからこそ、社会の困難な境遇にいる人々の痛みをわかってあげる事ができると思うので、広く社会のためにアクションを起こしていきたい。社会の奉仕者としてスケールの大きい仕事が出来る国家公務員や被災地を拠点にしたビジネスなどに興味がある。
これから始まる大学生活では、リーダーとしての視野と見識を広げるため、勉学はもちろんのこと、留学やサークル活動、ビヨンドトゥモローの活動に積極的に取り組んでいきたい。また、外国語の習得にも力を入れたい。
志高いビヨンドトゥモローの仲間たち、そして多種多様なキャリアを持つメンターの方々との交流を通して自らを成長させ、社会貢献ができる人材になりたい。
加藤英介(かとう・えいすけ)
東陵高等学校を卒業、慶應義塾大学環境情報学部に進学予定
気仙沼で被災し、家を失くす。両親が経営していたホテルは避難所となり、大学生ボランティアと共に、被災者支援活動に参加する。震災半年後の9月には、東北被災学生代表として、夏季ダボス会議に参加し、東北の状況について世界のリーダーたちを前に発信。将来は、自らが被災者であるという立場を活かし、自分と同じような境遇の人たちの経済状況を十分に把握した上で町づくりをしていきたいと、地元気仙沼の復興に携わりたいと考えている。
私が震災で失ったものは、日常空間です。私が小学校の頃、友達とはしゃぎ、遊んでいた公園が津波で利用できなくなってしまいました。思い出の宝庫と言っても過言ではないほど大切な空間だったこの公園が、瓦礫置き場になっているのを見たときは、とても辛かったです。何よりいまの子供たちがそこで遊べなくなってしまったことが、一番悔やまれることです。
親戚や友達、知り合いが、私や私の家族をどれくらい思っていてくれたのかを知ることができました。また、このような未曾有の災害が起こった時、人間は本性を表すものだと痛切に感じました。
震災から約1年が経ったある日、私は友達と話し合いをしました。その友人は被災後、抽選で仮設住宅に入居が決まりましたが、そこでの生活は閉鎖的なもので、隣人同士あいさつを交わすこともなく、精神的に落ち込んだ1年だったと言っていました。おそらく、他の住民も同じ気持ちを抱いていることでしょう。こういった状況を改善するためには、楽しい空間で娯楽を味わうことが必要だと、率直に私は思いました。
最近私は地方の総合体育館でスポーツをしています。そこでは、仮設住宅での状況とは逆に、知らない人同士が場所を共有し、対戦して楽しんでいます。こんな空間もあるのだと、もっと大勢の人に知ってもらいたいです。この1年で私は地元に「被災地スポーツクラブ」を作り地域住民に呼びかけて多くの人々にスポーツを通じて親交を深めてもらいたいです。また、運動を通して精神的ストレスを解消し、それに加え健康的な身体の維持に繋げたいと思います。
上澤知洋(かみさわ・ともひろ)
岩手県立盛岡第一高等学校を卒業、東北大学農学部に進学予定
「農業」をキーワードに日本国内のみならず、世界における貧困問題を解決できるような支援のあり方を模索していきたいと、農学部へ進学を決意。大震災での経験を自身の心の中に留めておくのではなく積極的に発信していきながら、仲間と一緒に大きく成長していき、その結果として、被災地の方々へも希望をもたらせるような活動をしていきたいと考えている。そのために、大学での勉強はもちろん、ビヨンドトゥモローのプログラムに参加して自分の夢に向かって遭進していきたいと考えている。
1年前の震災によって私の人生観は大きく変わった。まずは災害に対する心持ち、それまで地震、火災、台風など一通りの災害についての知識は持っていたつもりでいた。けれど、自分の性活を脅かすような大きな災害は自分には少し距離のある存在であると思い込み、その知識はいつしか単なる安心感に変わっていた。その根拠のない安心感が震災を通じていい意味で無くなった。また、それまでの私は仕事を通じて「社会に貢献したい」という気持ちよりも、「自分自身の家族を養うために」働くという自己中心的な考えを持っていた。一人ひとりが自分の家族さえ養えれば社会はどうにかなるだろうと思っていた。しかし、震災により自分だけがいい思いをすれば良いという気持ちは消え去った。
震災が起こった後の「非日常」という状況に陥って強く感じたのは、「日常のありがたさ」である。何も特別なことはなくても、家族全員が揃って食卓を囲むことがどれだけ幸せなことであっただろうか。それまで、日常に変化ばかり求め、家族に不満を抱いていた自分が情けなく感じた。家族、友達、先生など周りで自分の何気ない日常を支えてくれている人々への感謝の気持ちが湧き起こったが、さらに、自分が、被災地の住民という、世界から見れば弱い立場の人間に見られるようになったことで感じるようになった気持ちがある。それは、自分たちを支援してくれる日本、世界の人々に同情してもらうのではなく、私達の状況を真に理解して欲しいということだ。それは、被災地に足を運んだり、その地域の人々と会話することで得られるものだ。そして、この気持ちは発展途上国で貧困にあえいでいる人々と共通するということがあると思う。
私は、震災を通して「自分の人生」「自分自身のあり方」について考えてきた。そこで私は、発展途上国の人々の気持ちに寄り添いながら、農業の視点から食糧支援を行なっていきたい。具体的には3つのステップで実施していきたいと考えている。まず、先進国で剰余分の食料を発展途上国に届けるルートを作っていく。これで、現時点で食料が全くない、農作業を行える状態にない地域にもある程度の食料が確保できる。しかし、いつまでも食料を供給するだけでは発展途上国は自立していけない。そこで、次に行うのが農地開発である。自国の食料を自力で生産できるように、先進国の技術を提供していく。そのとき、農作業の役割を決め分担することで農村の形成にもつながっていくように思う。そして、最終的には外国に輸出できるほどの農作物を生産し、それを原料に加工品を作って輸出する体系を作り出したい。これが一連の流れであるが、当然ながらたくさんの困難が待ち受けていると思う。
そのために、今できることは何か。大学で農業について基礎から学んでいくのはもちろんのことだが、まずは、これから1年かけて現時点で行われている農業支援に関する事業を調べていきたい。その上で、現在の支援策の問題を洗い出しつつ、専門の方の話も参考にしながら、自分なりの新たな支援策を創り上げていくつもりだ。また「実際に現地に足を運んで理解する」という理念のもと、発展途上国に足を運び実情を知り、現地の生の声を聞いて新たな支援策づくりに生かしていきたい。
最後に、将来的に自分が活動する基盤を見つけなければならない。発展途上国支援にもさまざまなアプローチがある。自分の能力を最大限発揮できる場はどこか、自分から積極的に公的機関、企業を訪問することで見つけていきたい。
いま自分が思い描いているのは理想であるが、これを現実のものとするために、力を尽くしていきたい。
菊池翔太(きくち・しょうた)
岩手県立大船渡高等学校を卒業、東北学院大学法学部に進学予定
震災直後、地域ボランティア活動に参加していた際に、震災から時間が経っていないにも関わらず、大船渡の人々が立ち止まることなく復興のために動き出そうとしている姿を見て、大船渡の強さを痛感する。将来は、「人のためになる仕事をしたい」と考えているが、大学生活中にその夢を具体化したいと、被災という経験を忘れずに、積極的に様々な活動へ参加したいと考えている。
私は今までの人々に対する考え方を失いました。今まで私は、人が行動する時はどこかで自分の利益を考えていると思っていました。しかし、震災直後のボランティアに参加した私は、今までの考えの違いに気づきました。そこには、ただ困っている人を助けたいという思いの人しかいませんでした。被災した家の片付けを手伝っている途中で下敷きになってもおかしくないのに、事故すらかえりみないたくさんの人が集まっていたからです。
私はボランティアで見た、人が辛い時だからこそ励まし合い、笑い合い、手を取り合って自分の街への復興へと動いている姿に心を動かされました。私は、人の団結や優しさというものに触れ、これからについて考えなおし、将来は絶対誰かのためになる仕事がしたいと考えました。これは私が震災について前向きに考えたからこそある将来だと思います。
私は震災を通して人々の団結や優しさを見てきた自分だからこそしたいことがあります。それは自分が震災で見たり、聞いたり、感じたりしたことを老若男女、そしてこれから生まれてくる子供にも伝えることです。特にニュースなどで震災の表面的な部分しか見えなかった人に、震災の本質を伝えたいのです。そして、聞いた人には、私がそうだったように自分の価値観や将来を考え直してもらいたいです。若い人には、少しでも誰かのためになる仕事がしたいと思って欲しいです。だから私は、将来、自ら人に対して語りたいと考えています。それは国内でも良いけれど、世界の人にだって伝えたい!世界中で震災に対する考えを共有していきたい!
この自分の将来を実現するために、この1年間は外国でも語れるような英語力を、そして、どんな場所に行っても、人々と思いが共有できるようなコミュニケーション能力を身につけたいです。そのためにも、いろいろなプログラムやイベントに積極的に参加したいです。自分が考える将来を実現するため、この1年間、そしてその後も努力し続けます。
菊地将大(きくち・まさひろ)
岩手県立高田高等学校を卒業、筑波大学社会・国際学群に進学予定
陸前高田市で被災し、両親を亡くす。高校では生徒会長としてリーダーシップを発揮、震災後には、第14代高校生平和大使としてスイスの国連欧州本部を訪問した。震災で世界より多くの支援が寄せられたことから国際連帯の重要性を感じ、世界に防災の必要性を発信していくことが日本の今後の使命であると考えている。将来の夢は、陸前高田市の市長となり、被災地の復興を先導する立場になること。特に、多くの人が職場を失い、経済的困難にあえぐ状況に強い危機感を覚え、雇用問題の解決に貢献したいと考えている。
3月11日の東日本大震災は、人々に災害の恐ろしさが如何なるものかを痛感させました。これによって、今まで自然災害を甘く見ていた気持ちは失われたと考えます。私たちは家族や友人、街など大切なものをたくさん失いましたが、この気持だけは失って良かったものではないでしょうか。
震災後は日本だけでなく、世界中からたくさんの支援の手が差し伸べられました。ここから私は、人の温かな思いやりを見つけました。この思いやりは今もなお、途切れること無く続いており、私たちは感謝をしてもし切れません。
震災で甚大な被害を受けた陸前高田市では、若者の地域離れが甚だしい現状があります。私はこの現状を変え、若い世代が中心となり作用していけるような、活気溢れる街をつくり上げたいと考えています。そのために、私は政治家を目指そうと思います。
大学では政治学を学び、そこからたくさんの人と出会って、人脈をつくっていきたいと思います。
倉本知邑(くらもと・ちさと)
岩手県立盛岡第一高等学校を卒業、明治薬科大学薬学部に進学予定
震災で家を失ったが、母親や、地域の人々が復興に向けて頑張る姿を見て、自らも何らかの力になれるようになりたいと考えるようになった。震災を通じて、人々の健康を守る薬を届ける薬剤師という仕事の重要性を痛感し、薬剤師になるという夢がさらに確固たるものになった。4月から薬学部に進学し、夢である薬剤師を目指す。今後、新しい生活の中で得られるであろう知識やあらゆる人たちの経験、思いを社会貢献に活かせるよう頑張りたいと考えている。
家や、母の経営していた仕事場、小さな頃から親しんできた町、生まれてから今まで私が、母が、友人が記録してくれていた写真や映像として残っていた思い出、お世話になった人々も、津波はさらっていきました。伯父はなんとか津波からは逃れられたものの、車中での生活や、薬不足などで心筋梗塞となり亡くなりました。そして、あの日突然の出来事で、とっさに出た、または被災者の気持ちを汲み取らないような言動で、一部の人々への信頼も失いました。
震災直後から、今まで何の関わりもなかったたくさんの人々から、たくさんの支援をして頂き、今もお世話になっています。そのおかげで多くの被災した学生は私も含め進学することができ、志が更に強くなった将来の目標へ向かっていくことができています。被災者同士、また、国を越えて人々の助け合いの重要さを再確認しました。その人々の輪が広がり、震災以前の普段の生活では出会うことがなかったかもしれない方々との出会い、つながりを感じました。このビヨンドトゥモローもそうです。特別な体験を通して出会った仲間と、震災以前よりも、私は未来を考えることが出来ています。
震災以前から私は薬剤師になりたいと思っていましたが、あれ以来、その志は強くなりました。
震災直後、薬剤師の被災地での活躍や、ある地域では薬剤師不足もあったことを耳にしました。今回の地震による被災地は、薬を必要とするお年寄りが多く、避難途中でも薬を忘れたことで家へ戻ってしまうこともあったそうです。避難してからも薬がない事で体調を崩してしまった方がいたそうです。だから私は、いつ何があっても、迅速な薬の調達や、患者に合った処方などをする、不安がないような環境をつくりたいと思いました。
私はこの春、大学へ進学し、薬剤師国家資格の取得を目指して、6年間勉学に励みます。この1年はその第一歩として、目標を心に留めて勉強し、その目標に達するための方法を探していきたいと思います。また、昨年とは違う環境の中でこれからは学んでいくので、私ができることとして、自分が震災を通して感じたことを発信していきます。
穀田龍二(こくた・りゅうじ)
宮城県気仙沼高等学校を卒業、現在国公立受験準備中
震災以前から深刻だった若者の地元離れという問題を、震災復興という枠組みの中で解決していきたいと考えている。特に、これからの時代を担う自分たち若い世代が先駆者となって魅力的な会社を興すことで東北地方の未来に貢献することが夢。大学では、企業経営者や政治家、官僚など様々な領域で活躍するリーダーたちとの対話を通して教養・見識を深め、成長していきたいと考えている。
3月11日、津波は私の自宅の数十メートル前で止まりました。自宅の近くからたくさんの遺体が発見され「人は簡単には死なない」という考えを失いました。また、水道・電気が止まり、当たり前の生活を失って、当たり前の生活がどれだけ幸せだったかを、身をもって知りました。
私は震災の経験から、自分に対する自信を見つけました。水道・電気が止まった生活を乗り越えたことで、困難に立ち向かう力が養われました。ボランティアに参加して、多くの人とめぐり合え、様々な地域の人と交流をできたことは自分の視野を広げることにつながりました。これらの経験は、自分の力を高めることになり、自信に変わりました。
震災による普通ではありえない困難を乗り越えた自分だからこそ、私は被災地を活性化させるような会社を作れると思います。震災後の生活で培われた根性は、様々な試練を乗り越えられると思います。目標は、若者の地元離れを食い止めるような会社の設立です。具体的には、漁師さんが苦手としている、捕ってきた魚を売るということをする会社です。この目標を実現させるためにも、この1年、私はビヨンドトゥモローのプログラムに参加して経営者の方々からお話を聞いたりすると共に、海外の人とルームシェアをすることによって、実践的な英語を身につけたいと思います。また、夏休みにアルバイトをして、職業体験をしたいと思います。
西城国琳(さいじょう・こくりん)
宮城県気仙沼高等学校を卒業、拓殖大学国際学部に進学予定
中国・大連生まれ。中学校1年生の時に、母の再婚により来日。以来、南三陸町に住む。震災後、自分の故郷は南三陸町にあると確信し、日本国籍を取得。震災を通じて、「教育」「情報」の大切さを知り、アフリカの貧困地域で教育を普及させ、より多くの子どもたちが夢を実現できる社会作りをしたいと考え、アフリカにおいて人材養成を行う非営利団体を設立したいと考えている。一方で、愛する故郷である三陸の復興に貢献できるような活動にも携わりたいと思っている。
私は今回の震災で、自宅、思い出の品、多くの親戚や友人を失いました。しかし失ったものはネガティブなものだけではなく、今まで自分の中にあった「誰かがやってくれるだろう」とか「自分がやらなくてもなんとかなるでしょう」という甘えを捨てることも出来ました。
私が震災で見つけたものは、失ったものよりも多くあります。それは、人のあたたかさであったり、生きていることへの感謝の気持ちであったり、家族の大切さであったり、というものでした。そして一番大きいものは、震災を経験し自分に向き合う時間がうまれたことで、自分の進むべき道、将来への夢を手に入れることができた、というものです。
私の住む町はチリ地震津波を経験し、防災教育にも力を入れています。そのおかげで、私は、地震後に素早く避難するという、正しい判断をすることが出来ました。そして、避難所でボランティアとして働いている合間に、発電機の灯の下で勉強したことが、自分に教育の大切さを改めて気づかせることとなりました。
こういった体験から、将来自分は、アフリカに教育を普及させたいと思うようになりました。自分が教育を行うことによって子供たちの夢を支えてあげたいと思います。
そのため、この1年間は、語学はもちろんのこと、アフリカに行って実際に現場を見て、国際関係学や国際協力学を頑張って勉強していきます。
斎藤光馬(さいとう・こうま)
宮城県白石高等学校を卒業、帝京大学外国語学部に進学予定
震災後、高校生の仲間を募り、被災地に自転車で支援物資を届けるという活動を組織した経験を持つ。幼少期に過ごしたドイツで訪れた、戦争被害児が集う「ドイツ国際平和村」の存在に衝撃を受け、将来は日本に同じような場を作り、多くの子供たちに笑顔を届けることが夢。そのためにも、国や民族を超えて人と人が助け合うような場をどのように作るのかを学びたいと考えている。
故郷や全ての人の思い出までをも失ったあの日。築いてきた多くのつながりも、美味しい食べ物も、無くなってしまった。失ってしまったことで思い出す。あのあたたかさは、もう戻ってこないのかな、と。
震災直後に目の当たりにした、秩序のない混沌とした避難所。張り詰めた緊張の糸は、今すぐにでも切れてしまいそう。普段は笑顔のご近所さんも極限の状態、子供達は泣いて、いつもの優しい笑顔は見られないのかな。みんなで協力するということ、絆。みんなそれにすぐに気づいたけれど、その一歩前の姿は、凄く人が怖かった。自分ひとりでは何もできないとも思い知らされました。
新しいつながり、より堅くなったつながり、絆。自分ひとりでは生きられないし、自分にはこんなにたくさんの仲間がいる。そんな仲間たちと、毎日一緒になってがむしゃらにやり続けた沿岸部へのボランティア。日々広がる和を感じながら、笑って食べた白ご飯の美味しさや、お風呂の気持ちよさは、自分は知っているようで、実は何も知らなかったんだなあと思わせてくれました。この辛い震災を乗り越え学んだことは「逃げる理由を作らず、まず行動すること」からついた自信。そして、当たり前なんて無いんだというあたたかい決意と、自分ができることを全力でやるんだという熱い気持ちも、自分の中で見つけることができました。
「復興元年」の今年度は、全国各地から我が家に届けられる大量の支援物資を、南は相馬市、北は大船渡市まで、毎週のように配り続けていました。何のあてもないため、果たして受け取ってもらえるのだろうかという不安もありました。そんな不安は、受け取って下さったみなさんの笑顔が吹き飛ばしてくれました。それが、次回もまた来ようという強い思いと、来て良かったなあと思うあたたかい気持ちに変わりました。
そうしたつながりの我が広がり、そしてまた来る度に絆が深まり、そこからさらに支援の輪が広がっていきます。そうした支援を続けている中「あなたが来るようになってから地域間の交流も広がった、ありがとう」と地元のおじいちゃんが言って下さったことも、自然と、モノの支援だけではなくなったのだと感動したのを覚えています。
これこそが、自分らしさではないかと思いました。地元のおじいちゃん、おばあちゃんから辛い体験談を聞いたり、自転車を使い大量の物資を自分の手で運んだり、子供たちと実際に体を使って遊んだり・・・。これらは大人にはなかなかできない、若者らしさだとも思います。私たちにしかできないことです。
これから新しい生活が始まろうとしています。大きなことはまだモヤモヤとしていますが、今思うことは、目標や夢を持つことももちろんですが、私は私らしく、目先の、自分らしい支援を行いたいと考えています。もちろん、目標や夢も探しながら・・・。 私がこれからの1年間でやりたい事は、これまでと同じようなことはもちろん、それ以外にも、個人的に、県内の小学校を訪れ、被災した子供たちを対象に、休日イベントとして図画工作の授業を企画し、様々な”龍”を作ろうと思っています。今年は辰年なので。先月(2月)25日に山元町、亘理町で巨大な龍を作りました。子供たちが自分で創作する力を養うこと、龍を作ることに意味はないと思うでしょうか?しかし、実際には楽しそうに子供たちが笑っていたのです。実際に子供たちの笑顔に触れることがとても貴重で、楽しくて、良いことだと思っています。
そうした、この1年分の子供たちの笑顔と、制作した大きな龍たちをデータにまとめ、是非とも1年後に発信する場を頂きたいと思います。
佐々木瞳(ささき・ひとみ)
宮城県気仙沼高等学校を卒業、Foothill Collegeに進学予定
気仙沼で被災し、家を失う。同じ人間でありながら、生まれた場所によって人生が大きく変わってしまうという地球上の不公平に衝撃を受けた中学時代の経験から、途上国の支援など、世界のために働くことが夢。夢の実現のために、語学力とグローバルな視野を得るべく米国での進学を決意。国際関係論を学び、人身売買や貧困、飢餓といった地球規模課題の解決に貢献したいと考えている。
多くの人や建物、交通機関など、今まで当然だと思っていたものが失われました。それらを失くしたことで人々の生活は大きく変わり、眼に見えない人々の精神面にも大きな変化を及ぼしました。今まで私たちは何の変化もない過ごしやすい日常生活を送って来ましたが、それが突然、常に問題に対処しなければいけない不便な生活へと変わりました。元の生活を取り戻すためにと常に構想したり、生活費や通学費用など、資金的余裕を失い、挫折した人も多くいます。どうしていいか分からず、生きていこうとする意力を失った人もいます。このように震災によって失ったものはたくさんあります。しかし一方で、震災を軽視する気持ちがなくなったり、この困難を自分が立ちあがり、人のために活動しようという意力が芽生えた人も、私は大勢知っています。
私は家を失って、家族バラバラに、しかもライフラインがない状態での生活を経験し、家族の大切さや自分が今までどれだけ便利で恵まれた生活をしていたか、身に沁みて実感しました。震災直後は、盗みや放火など日常ではめったに起こらないことが多発していました。これは今まで私たちの生活が、食べ物がすぐ手に入り、整った環境の中で過ごしていた恵まれたものであったことが、一瞬で失われたことで、秩序が失われたのだと思います。世界でも貧困に苦しむ地域は治安が悪いという状況が見られます。私は、中学時代から発展途上国の支援をする仕事をしたいと考えていました。今回の震災を経験して、途上国の人々の辛さを実感しました。また、世界中から支援や私たちを思いやる暖かい心を感じ、自分の夢への意がいっそう強まりました。
震災前までは、ただ単に支援をする方の視点から途上国の人々の支援をしたいと思っていました。しかし、今回自ら震災を経験して様々な問題が見えてきました。例えば、支援される側のニーズを支援する側が良く理解していなかったり、という事です。支援していただくことはとても有難いことなのですが、支援する方はしっかりとニーズを把握するということも大切だと思いました。
そこで私は、自ら積極的に現地に足を運び、現地の方々がどのような生活を送り、何を必要としているのか自らの目で見て来たいと思います。一口に途上国の支援をしたいと言っても、その支援の方法は多種多様にわたります。今はまだはっきりと方向性が見えていないので、大学に通う中で自分の興味のある分野を見極めていきたいと思います。
私はアメリカの大学に進学予定です。アメリカの大学には世界中から留学生が通っています。そのような国際的環境で学ぶことで広い視野を見につけ、多くの人達に正しい日本の現状を発信していきたいと思います。
佐藤滉(さとう・こう)
岩手県立盛岡第一高等学校を卒業、高崎経済大学地域政策学部に進学予定
震災を経て、被災した人々の声が未曽有の大災害の生き証人の言葉として多くの人に伝わることが、震災を風化させないための鍵であると考え、被災者の声を広く発信する伝道師としての役割を担いたいと考えている。将来は、東北の観光復興に携わることで、地域活性化や産業促進に貢献したいと考えている。そのために広い視野を持ちたいと、大学では留学し、グローバルに通用する信念と発言力をもった人材になることが夢。
私は、地震の瞬間を岩手県盛岡市で経験しました。様々な地域での異なる被災状況は内陸部まで十分には伝わって来ず、沿岸地方との距離が広がってしまったように感じられました。それは交通の便が悪くなってしまった事などに起因する、移動にかかる所要時間の拡大の他に、私をはじめとして内陸部に住む県民の多くが、沿岸部で被災した県民にどう接するべきか分からず、結果、意図して距離を置いてしまったことが大きな要因として挙げられると考えます。しかし最近は、沿岸部への積極的な訪問や、現地の人々からお話を伺うなどして、開いてしまった距離を縮め、より被災地に寄り添った形での復興支援に協力したいという思いで行動しています。
震災は、日本の中で東北が果たしてきた役割を再認識させ、同時に、これまで知らなかった東北の魅力を発見する契機となっています。今年の1月、私は宮城県の沿岸北部を訪れました。石巻市では、壊滅的な被害を被りながらも復活した鮨店で旨い鮨を食べ、気仙沼市では、リアス海岸の美しい眺めや、世界に通用する一流のデニムを制作する地元企業に出会うことができました。災害に見舞われても屈すること無く、再起しようと奮闘しておられる人々に出会い心強く思うと共に、では自分は一体これから何をしようか、という悩みを抱くこととなりました。
多くの人々が口をそろえてお話になることは、このまま何もしなければ三陸海岸の街は一層衰退し、何も無くなってしまうだろうという、元来存在していたものの、震災によってより顕著になった問題に対し、危機感を感じているということです。私は、この問題が日本全国の地方部に共通する問題として考えています。
そこで、私が現在抱いているビジョンは、産学連携型の社会構築や、地場産業の振興・発展による地方再生のプロジェクトを、東北をモデルケースとして実現し、その後日本各地に地方再生のヒントとして展開していくものです。地方再生のコンサルタントとなる事を目標とし、大学では、これからの地方のあり方を、経済や地方政策のアプローチから学びます。
菅原彩加(すがわら・さやか)
仙台育英学園高等学校1年、9月より海外のボーディングスクールへ留学予定
石巻市にて被災。津波によって母、祖母、曾祖母を失う。現在は石巻市の仮設住宅で祖父と生活している。震災から6ヶ月後、中国にて開催された夏季ダボス会議に参加し、世界のリーダーに向けて自身の経験を伝えた。将来は、自分が体験したような辛い思いをしている子供のために働きたい。また、震災後に日本に支援をしてくれた国々への恩返しとして、国際ボランティアにも取り組みたい。
私はこの震災で家族や友達、家などいつも身近にあったたくさんの物を失いました。また、自分の通学していた小学校やお世話になった先生、思い出の場所など自分に関係のある血や施設、お世話になった人も失いました。
私は震災によって遺児となったために「あしなが育英会」に入り、たくさんの活動をしていく中で病気や事故など様々な理由で親を亡くした人に出会い、初めて、親が居なくて困っている人がとても身近にたくさんいた事に気づきました。
私は震災後に募金やボランディア、さまざまな理由で海外へ行く機会をたくさんいただきました。そのたびに現地の高校生とたくさん交流したり、一緒に学校へ通ったりしました。その日々の中で私が自分の体験について話をした際にたくさんの人が涙を流し、たくさんの応援や励ましの言葉をもらいました。「頑張れ、頑張れ」「もっと強く、大人になれ」そんな事ばかりを言われ、心が晴れない気持ちだった私へあるカナダの高校生が言ってくれたこと、「これからは1人で生きていかなくちゃないんだから」「さやか、あなたは今凄く頑張っている。大丈夫、あなたは今のままが一番いいよ」「私はさやかにすごく元気をもらった。大嫌いな勉強も頑張る」と声をかけてくれました。そのおかげで私は凄く元気づけられました。
そのことをきっかけに、私は「今居る世界よりも大きな世界へ足を踏み出すこと」がとても重要なのではないかなと思いました。元気がなく困っている子供たちがたくさん居ると知った今、私の夢は「おたがいが励まし合える仲間を作る仲介になりたい」ということです。つらいことを私がわかってあげる事もできるし、他の国の人だからこそ、お互いの良さを見つけられると思いますし、どんな事でも得るものがきっとあるはずです。みんなが少しでも笑顔になるように、あきらめず、頑張ります。
菅野翼(すげの・つばさ)
福島工業高等学校を卒業、宇都宮大学国際学部に進学予定
震災で世界の国々から支援が寄せられたことから、国際協力の重要性を感じ、自らが国際社会に貢献できる存在になりたいと考えるようになった。日本だけでなく世界各地で貧困や紛争で苦しんでいる人々が明日への安心を持てるような社会構築を学ぶために、国際関係学を学ぶことを決意。大学在籍中には、ヨーロッパに留学し、視野を広げたいと考えている。また、被災者として、自然災害の恐怖や東北の力強さについて世界にむけて発信していきたい。
震災を経験し、私は、失ってしまいネガティブに感じているもの、逆に失って良かったとポジティブに考えているものがある。
震災によって、原発事故の影響で安全な暮らしと食が失われた。また、あたりまえの日常や平和への安心感、自分の故郷への自信がなくなった。対策遅れなどで、行政への信用というものも薄れていった。
しかし逆に、自分が被災したことにより、以前のような、他人に対する表面だけの見方が無くなり、本当に共感できるように変わった。また、楽観性が消え、物事を真剣に捉えるようになった。
自分とゆっくり向き合い考える時間ができ、新たな人との出会い、つながりを得ることができた。また、仲間や家族の大切さ、日々のありがたみ、震災に対する備え、認識、食料の大切さに改めて気づくことができた。しかし、多くの付の面についても震災によって浮き上がってきた。例えば、被災地と他県、自国と他国の意識格差の問題、そして私が一番憤慨したのが、被災した家や店から金品や物を盗みに多くの人が来たという、人間の貪欲さだ。その他にも、情報網の薄さ、情報伝達の不具合など、不満はたくさん出て来てしまうと感じた。
今の目標を「明日への安全」と抱いているのは、自らがボランティアをして、避難者の言葉を聞き、表情を見て、この人達は支給品などを受け取って「せめて明日は生きていける」という安心感を一瞬でも感じ取ることができたのではないかと思ったからだ。
私はこれから「明日への安心」という言葉をキーワードとして活動していきたい。
そもそも、明日への安心とは、その土地の人々が、明日に「今日よりは良い一日、最低でも今日と同じような暮らし」というような希望が持てるようになることだ。そのために、生活基盤や職業支援という直接的なことも大事になるが、きちんとした情報を知り、自ら判断し行動できるように促すことで、その人達にもっとチャンスを与えられる。
そこで私は、グローバル化した社会の中でお互いに情報を分かち合う手段がない海外の貧困地域、発展途上国でその人達の真理、行動、歴史を分析・探求し、地域にあった正確な情報を享受し会えるようなシステムを提供し、明日への安心につなげたい。
生きてゆく上で、情報を得ることは人生に大きくかかわってくると思う。また、私は初等教育の重要性を感じているので、貧困を抜け出すためのツールとして情報と教育をかけ合わせた教育支援などをしていきたい。そのためには、先入観や固定観念を捨て、あらゆる角度から多面的に、また、相手の側に立った見方で、物事を考えていきたい。
まず、この1年間では基礎的能力を積み上げるのも必要だが、勉強以外にも経験を積み、社会科学、情報科学を通して人間分析について学んでいきたい。そして、これからは「格差を無くし社会を少しでも安定させるためには?」というものを、自分の課題、研究テーマとしていきたい。
高橋奈々美(たかはし・ななみ)
宮城県宮城第一高等学校1年、9月よりフランスの高校に1年間留学予定
震災後、絶望で明日を生きる気力すらなくなった日々もあったが、震災はそれまでに気づかなかった大切なことも教えてくれたと感じている。震災後、被災地代表としてベラルーシ共和国ミンスク市で市長や現地高校生に震災について伝えるという活動も行った。日本とフランスの高校生をつなぎ、震災のことを積極的に発信し、「ビヨンドトゥモロー 海外支部」として活動したい、と意欲をみせている。
私が震災で失ったものは、お世話になった親戚の人々や、大好きな故郷の風景です。この2つが特に私に大きな喪失感を与えました。母と遊び、幼いコロ慣れ親しんだ海岸には200体もの遺体が上がり、かつての面影はもう有りません。私は自分のかつての思い出と「被災地」という言葉を結び付けられずにいます。
私にとって、震災を経験して見つけたものは、失ったものよりずっと多いです。中でも、大きいことが3つあります。1つ目として、離れていても私たちを心配してくれる人がたくさんいることに気付けました。国内外問わず人々からの励ましのメッセージは、頑張る力をくれました。2つ目は、震災復興をしようと頑張っている仲間に出会えたことです。ビヨンドトゥモローやJENESYS FESTIVALで、自分と同じ高校生が頑張っている姿に、私も何度も力をもらいました。
私は今年の9月からフランスに留学します。震災のことを発表する場所も、環境も恵まれています。だからこそ、私は震災のことや、その後に復興しようと頑張っている人々の様子を、世界に発信していきたいと思います。
この1年でやりたい事は、まずは震災を経験した高校生と海外の高校生が直接意見を交換できる場を作ることです。現在、外国の高校生から震災に対する関心は高まっていますが、東北の高校生がそれに混ざっていることは殆どありません、なので、日本から留学する仲間と連携をとってネットワークを作り、東北と海外をつなぐ橋渡しとして、ビヨンドトゥモローの活動を海外に伝えていきたいです。自分が与えられた環境を、最大限に活かしきれるよう頑張ります。
千葉真英(ちば・まさひで)
岩手県立大船渡高等学校を卒業、宇都宮大学工学部に進学予定
大船渡にて被災。津波によって母親と祖母を亡くし、家も流された。現在は父親と二人の弟と一緒に大船渡の賃貸住宅で生活している。多くの命が犠牲になった中で自分は助かったという経験から、将来は地元の復興と、自然災害に備えた街づくりに貢献することが生き残った者の使命であると考えている。三陸沿岸地域の災害に強い街づくりに参加し、復興に関する事業を行う会社を立ち上げたいと考えている。
本当に何事も経験しないと理解出来ないと思いました。想定以上の被害、それに伴う精神的苦労が現状であり、それによって災害を甘く見る気持ちを捨てることが出来ました。
「生きることは、呼吸することではない。行動することである」という、ジャック・ルソーの言葉を高校時代に何度も言われましたが、いまの私はその点で言えば生きていると言えます。ビヨンドトゥモローに参加し少しずつ自分が日本の地域社会へ参加しているという自覚が芽生え、小さいアクションを起こす大切さ、大変さを学びました。
「自分だからこそ」と考えた時、私たちにあって他の人にないものは、震災を体験していることです。その中にも1人1人 only oneの経験があるわけで、個々でそれを発信することは今一番重要だと思います。以前、アメリカの10代の人々と交わる機会があったのですが、実際「多様でざっくりとした情報を知るよりも、(私の)個人の話を深く聞いたほうが、より心に残った」と聞かされました。
いま私は、地元・東北の明日について同年代の仲間たちとディベートをすることが、本当に意義のあることであると思います。私のいまの目標は地元・大船渡の復興に尽力できる能力を備えることであり、安心できる街づくりをすることであります。そのためにこの1年は大学で街づくりの基礎・土台を築きながら、並行して、震災体験の発信を行なっていきたいと思います。
福田順美(ふくだ・なおみ)
岩手県立高田高等学校を卒業、宮城大学看護学部に進学予定
陸前高田で被災し、家を失くす。将来は、生まれ故郷である陸前高田の街に戻り、人々の笑顔を守ることのできる保健師になることが夢。震災後、進学を諦めかけたこともあったが、もっと日本を、世界を知りたいと進学を決意。将来、保健師として陸前高田の街に貢献できるような人間になるべく様々な経験を積みたいと、大学生活を通して新しいチャレンジに取り組んでいきたいと考えている。
失ったものは、物理的なものだけではありません。それまでの日常、常識、安心して生活できる環境をたった数十秒で奪われました。住み慣れた町には多くの思い出がつまっていました。昔から仲良くしてくれていて、まるで本当のお兄ちゃんのような存在だった幼馴染とも、保育園の頃から一緒だった友だちとも、もう二度と会うことはできません。大切に大切にしていたペットたちと会うことも、鳴き声を聞いたり、ふわふわのお腹を撫でてあげることも、もうできません。
失ったものの中には、失うことによって私を成長させてくれるものもありました。震災の前までは「きっと誰かがやってくれるだろう」という甘えがありました。しかし震災後、何かを変えて欲しいなら、何かを変えたいなら、自分でやらなければいけないということを知りました。
震災後、私たちは十分な食べ物がなく、着替えもない、何週間もお風呂に入れず、毎日誰かの訃報を聞かなければいけないという生活を何週間も強いられました。でも、何ヶ月かすると、多くの人の支援のおかげで、十分な生活を送ることができるようになりました。
しかし、世界的に見ると避難生活を送っていた頃の私たちよりも過酷な生活を、当然のことのように送る人たちがまだ沢山います。被災し、避難所での生活を経験したからこそ、国や、生まれた環境、年齢、性別など関係なく、その人達や被災者を含めたみんなが、心から笑顔になれる、何ともない日々を幸せだと感じられる環境を共に作りたいと思っています。
そのために今、興味を持ち、目指しているのが、国境なき医師団です。私は将来、地元・陸前高田で保健師として地域の方々に寄り添っていきたいと考えています。地元に戻り、保健師として定着する前に、国内外で多くの経験を積もうと考えています。
私は春から4年間の大学生活が始まります。看護学は守りたいと思う人達のために、語学は自らの可能性をより広げ続けるために、長期休業などを有効に使い、積極的に学ぼうとする姿勢を保ち続けたいと思います。
藤田真平(ふじた・しんぺい)
神奈川県立岸根高等学校を卒業、神奈川大学法学部に進学予定
宮城県気仙沼で被災し、家を失ったため、神奈川県に避難、家族と離れて神奈川県で高校に通った。13年間続けてきた水泳が心の支え。震災後9月には、山口県で行われた国民体育大会で宮城県代表として出場し自己新記録で12 位。大学進学後は全国大会に出場し、日本一の選手になるという夢を持っている。将来東北を担うリーダーになれるように成長していきたいと考え、将来は、復興のために地元・気仙沼に帰り、若者が出て行くのを減らせるような会社を同じ志を持つ仲間と共に立ち上げることが夢。
私は、3月11日の東日本大震災により、自宅を焼失しました。近所のホテルに避難していた私は、火が移り、燃え、崩れ落ちる家の姿を見ていました。お金、思い出、写真、それらすべてが消えて行く姿を見て、生きる気力を失い、生きがいにしていたプールも被災し、未来への希望も持てなくなりました。
しかし、家を失くして困っていた私達家族を受け入れてくれる家庭が早くに見つかり、人と人とのつながりや、人の温かみの素晴らしさを見つけることができました。そして、その居候先の家で新聞記者の方と知り合うことができ、プールの前で写真を撮り「泳ぎたい」という気持ちを形にしたところ、神奈川大学さんにお声をかけていただき、水泳を続けることができるようになりました。気仙沼を離れ、水泳を続け、結果を出すことで、気仙沼を活気づけることが自分の使命であり、今後の新しい目標であるということを見つけることができました。
私は、この1年でやりたい事が3つあります。
1つ目は、震災を体験し、津波や自然災害の怖さを知った自分だからこそ、後世の子供たちや被害のあまりなかった地域の人々に、どれほど危険なのかを伝え、今後起きるであろう地域の震災対策などに貢献していきたいです。その動きの初めとして、寮に住んでいる先輩や同期の人たちに呼びかけようと思います。今後、海外研修のプログラムがあるとのことなので、海外の、地震や津波の起きる可能性のある国へ行き、私の経験を主張することで、地球全体の自然災害への意識が高まれば嬉しいです。
2つ目は、本業の水泳を頑張り、いい成績を収め、気仙沼へ良い報告ができるように日々練習に励みたいと思います。
3つ目は、将来の目標である「漁業関連の会社の設立」に向かい、できるだけ知識を吸収していきます。
船越絵雅(ふなこし・えみ)
岩手県立宮古高等学校を卒業、早稲田大学文科構想学部に進学予定
震災で祖母や親戚を亡くす。震災後、自らにできることを考えた際に、「知る」ことの重要性を感じ、地元のラジオ局の災害FMの開設をボランティアスタッフとして手伝った。その体験から、情報を提供することで多くの人が様々な問題について考え、実践に移していく機会を作ることのできる職業としてアナウンサーを志す。また、震災を経て強く感じた、故郷である宮古への強い愛情から、東北および宮古地区の状況について幅広く発信することのできるアナウンサーになりたい。
私はこの震災で、メディアへの信頼感を失いました。そのきっかけには、震災に対する認識が、中央と地方で全く違うことがわかり、その原因を探っていった結果、中央のメディアの報道の偏りに気づいたことがありました。メディアにより報道された情報を受け入れることで、人々の社会の出来事への認識の大部分は形作られます。にもかかわらず、歪んだ報道が日常化している今、震災のことだけでなく、多くのことが正しく伝わっていません。
震災後、私は地元の災害FMにボランティアスタッフとして参加しました。そこで私は、宮古市のために奔走するスタッフの方々と出会います。彼らと一緒に活動していくうちに、私の心には、自分がこれからの復興を担っていく一員である、地域社会の一員であるという自覚が芽生えました。そしてそれが「自分がどうにかしていくのだ」という積極性を生み出し、様々なことを自分から行動に移していけるようになっていきました。
震災を経験して、私は社会の一員としての自覚を得たと考えています。
自分が報道する側となり、純粋な報道を目指していくことで、取り上げられた方と視聴者がありのままでつながるようにしていきたいです。また、そうやって素直な媒体としてのメディアを通じて得た情報を共有していき、多くの人が共通の問題意識を持てるようにして、1つの問題でも、みんなで考えていく場を提供できるような存在になりたいと考えています。
また、自分の震災の体験をそのような場で発信していきたいと思っています。これは国内に限らない発信です。まず国内では、来るべき震災に向けて、防災意識を高めてもらうために、次に国外では、日本の震災体験を伝えるだけでなく、その国の防災についての取り組みや意義を伝え合っていくことで、お互いに高めあっていきたいと思っています。
そのためにも、大学では語学を磨いて、発信していくための知識や教養を深めていきたいと思っています。
増子光希(ましこ・みき)
福島県立郡山高等学校1年、7月よりスイスの高校に1年間留学予定
福島県郡山市で震災を体験。その後も放射能問題による福島に対する風評被害や差別を実際に体験し、全国の人々に対して福島の状況を発信していきたいと考えている。今後、東北が復興するためには、多くの人が東北を理解し、支えてくれることが重要であると考え、9月からスイスに留学予定。留学先では、高校生外交官として、福島の現状を積極的に伝えたい。将来は国連職員になり、世界の開発問題の解決に貢献することが夢。
この東日本大震災での放射能汚染で、私達の故郷福島は「世界で一番危険な地域」というレッテルをはられてしまい、それにより風評被害が多発している現状にあります。福島を出て他県へ旅行に行く際には「福島」というゼッケンを付けて欲しいとの要望や、福島ナンバーのクルマがボコボコに壊されるという事実。私たち福島県民は他人への信頼心を失いました。
情報は私たちに風評被害という課題をもたらしましたが、この課題の解決策を導くのも情報だと考えています。正しい情報を知っている人はそれを多くの人に伝える使命があると、この震災を通して感じました。
私は風評被害の緩和こそが東北復興の鍵となると思っています。福島ということだけで偏見や差別をされたことを、身をもって体験したことで、多くの人は情報を誤解して判断していることが多いと感じました。だから私は風評被害の緩和のために少しでも多くの人々に正しい情報を発信する「情報と情報の架け橋」となりたいと思っています。そして、スイス留学の際には高校生外交官として世界中の人々に少しでも多くの福島の情報を発信していきたいと思います。
マンスフィールドデビッド宥雅(まんすふぃーるど・でびっどゆうが)
宮城県仙台第一高等学校を卒業、早稲田大学法学部に進学予定
医師としてインドの農村医療に従事した父について幼少期をインドで過ごした経験を持ち、電気や水道のない貧困層の生活を目の当たりにする。今回の震災で、先進国が窮地に陥る状況を体験し、今回の被災経験を活かして世界全体のポリシーについて考え、国家の枠に囚われず、グローバルな問題の解決に取り組みたいと考えている。将来は米国の大学院に進学して法曹資格を取得し、法という枠組みから社会問題の解決に貢献したい。
失うことにより気づくこと震災まで、私は、おそらく多くの日本人がそうであったように、あたりまえの日常が恒久的なものであると信じていました。
しかし、(2011年)3月11日、私はこの日常の脆さを知り、これまでのような楽観性を捨て、実際に震災を体験した私たちが行動を起こすべきだと考えました。
今回の震災では多くの人々の命が失われ、改めて命のはかなさを思い知らされました。しかし同時に、いつかは死ぬ自分が永久に続くこの世界を少しでもいい方向へ導きたい、それが自分の存在意義なのではないかと考えるようになりました。
東日本大震災を経験した私たちだからこそ、これから世界が変わっていく必要性をよく理解していると思います。また、その変化を率先して支える義務があります。僕は、長期的には、法律を通してこれを支えたいと考えており、そのために、大学では国際法を学び、将来は新たな立法への提言を行ったり、ビヨンドトゥモローのように地球の未来をより良いものにしようと活動している団体のコンプライアンス業務を手伝わせていただきたいです。
しかし、法律の勉強はやる気があればいつでもできます。この1年では、大学1年生という、まだ発進の途上である今しかできないこと、具体的には、様々な刺激的な新しい経験をして、成長していきたいと思います。
目黒妃呂美(めぐろ・ひろみ)
福島県立相馬東高等学校を卒業、東北公益文科大学公益学部に進学予定
背後にせまりくる津波から逃れるために走っている最中に、通りがかりの人に車に乗せてもらうことができたために危機一髪で命拾いをしたという経験をもつ。震災で家を失い、父は失職。音楽大学に進学するという夢をあきらめ、就職を考えたが、将来は街づくり、地域活性化について学び東北復興を担う人材になるという新しい目標の実現のためにスカラーシップを得て進学を決意。東北の被災地が早く復興するように、全力で頑張り、被災地が安全で良い街になるよう仲間たちと力を合わせていきたいと考えている。
私が震災で失ったもので、とても大きかったことは、夢を諦めなければならなかったことです。私には、音大に進み音楽教師になりたいという夢がありました。ですが震災で家を失い、父は職を失いました。そのため、一時は就職を考えたこともありました。また、一時的に目標を失いました。夢を諦めたこともあり、自分はこれから何をしたいのか、何をすべきか、目標を見つけられない時期もありました。
この震災から得たものは、失ったもの以上に私に大きく影響しています。最も影響があり、素晴らしいと思ったことは、ビヨンドトゥモローのリーダーシッププログラムに参加することができたことです。この企画に参加することができたからこそ、私と同じような体験や想いを持った素敵な仲間たちに出会うことができました。また、沢山のメンターの方々のお話を聞く機会を得ることができました。これは、震災から得た貴重な経験です。
私は震災で一度夢を諦め、一時は目標も失いました。ですが、この震災で得た貴重な経験が、これからの夢へと繋がりました。それは、被災地を含めた地方の活性化や街づくりです。私は震災前から、地方について興味があり、これからは地方に目を向けるべきだと考えていました。震災があり、進路が音楽から社会へと変わりましたが、地方へ目を向けるということは変わりません。私は、地方活性化について、行政からではなく民間から関わりたいです。そのために、大学では公益学を学び、街づくりや、地方活性化に必要な知識を得たいです。
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